陸遜
陸 遜(りく そん)は、中国の後漢・三国時代の武将・政治家。もとの名は議。字は伯言(はくげん)。諡は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫。陸褒の曾孫。城門校尉陸紆の孫。九江郡都尉陸駿の子。弟に陸瑁。姉妹に顧邵妻・姚信母。子に陸延・陸抗。孫に陸機・陸雲など。 後漢末期より、山越討伐で頭角を現し、孫権に才能を買われ、仕えた。関羽討伐や夷陵の戦いにおいてその名をあげ、軍政両務における呉の重臣として重用されたが、晩年は二宮事件に巻き込まれ、孫権と対立した。 生涯陸家の長に本貫は揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)。陸氏は呉の四姓と呼ばれる有力豪族であり、陸遜はその傍系として生まれた[2]。 父の陸駿は徳と誠心を持った人物として慕われたが、九江郡の都尉にまでなった時に亡くなった。陸遜はまだ幼かったため、本家筋の陸康(陸遜の従祖父)を頼り、廬江の治所舒県に住んだ。 陸康は後漢王朝の廬江太守であった。揚州を袁術が牛耳るようになると、当初は末子の陸績を寿春に赴かせるなど友好的な関係であったが[3]、 194年(興平元年)、兵糧問題により袁術と対立し、その部将である孫策の攻撃を受けるようになった。陸康はまだ幼かった末子の陸績を陸遜に委ね、本籍である呉県に避難させた。陸遜は家長である叔父の陸績より数歳年長であったため、後見人として家政を握った。 若い時、同県出身の陸績と顧邵の名声には及ばなかったが、張敦・卜静・吾粲と肩を並べ名声を等しくした[4]。 203年(建安8年)、21歳のとき、孫策の弟の孫権軍の麾下旗下に加わった。なお、陸績は孫策の代にすでに仕えていた。最初に、文官として仕事に就いた。孫権の幕府の東曹と西曹の令史(秘書官)を務めた後、海昌県(後の塩官県)の屯田都尉となり、海昌の統治も同時に行った。当時、同県は何年も干ばつに悩まされて民は困窮していたが、陸遜は倉庫を開いて貧しい人々に穀物を配り、農業と養蚕を推奨し農業発展を監督し、民の生活を支えて地元の人々の信頼を得た。号は「神君」[5]。 山越の討伐孫氏の版図である呉郡・会稽郡・丹陽郡には、孫氏の統治に従わず逃散している人々がいたため、陸遜はその中から兵士を募ることを申し出た。山越の不服従民の頭領に潘臨という者がおり、各地を荒し回っていたが、陸遜は志願兵を募って奥地まで出兵してこれを平定し、自身の部曲に編入した兵士は2000人に上った。 216年(建安21年)、賀斉と共に討伐し鄱陽の不服住民の尤突ら数千人の反乱を鎮めた。この功績で定威校尉となり、利浦に軍を駐屯させた[6]。孫権は彼を気に入り、自分の姪である孫策の娘を嫁がせるなど重用された。 217年(建安22年)、孫権が陸遜に政治の意見を求めた。さらなる軍勢の強化と国内の安定を急務だとし、そのためには内憂である山越を討伐し、それを通じて精鋭を増やす事を主張した。孫権は陸遜を帳下右部督[7](親衛隊長)に任じ、儀仗を授けるとともに、会稽・鄱陽・丹陽の3郡を統治させた。この時、丹陽の不服従民である費桟が曹操の扇動により蜂起したため、孫権は陸遜にこれを討伐させた。陸遜は、大軍を集めた費桟に対し寡兵であったが、夜襲をかけてこれを打ち破った。3つの郡で募兵を行い、精兵を数万人得るとともに、力が劣る者は民戸に編入した。賊達は一掃され治安は強化された。蕪湖に駐屯した。 会稽太守の淳于式は陸遜の行いを見て、不法に民衆を軍隊に編入させて民衆を混乱させている、と孫権に報告した。その後、陸遜は孫権と会話したとき、話題のついでに淳于式を褒め称えたため、孫権は年長者の風格をたたえている。 荊州攻略219年(建安24年)、荊州方面で劉備の将軍である関羽と対峙していた呂蒙が病気になり、建業に戻ることになったとき、その帰路の途中で呂蒙と対談を申し入れ、関羽を打倒し荊州を手に入れる謀を練ることを勧めた。呂蒙は建業で孫権と会ったとき、代理の武将について相談されたため、陸遜は才能が優れており、かつ関羽に名が知られていない事から、適任であると述べた。孫権はかくして陸遜を召し、偏将軍・右部督に拝して呂蒙に代えた。 陸遜は謙った態度の手紙を送って関羽の軍功を称えた。そのため関羽は油断し、呉に対する備えを完全に怠るようになった。陸遜はこのような状況である事を孫権に報告し、関羽を捕えるための作戦の要旨を述べた。孫権はこの知らせを受けて、関羽討伐を決断し、呂蒙と陸遜をその先鋒として長江を下らせた。陸遜は呂蒙と共に公安と南郡を攻撃し、たちまちのうちに降伏させた。陸遜は宜都に入り宜都太守の職務を遂行し、撫辺将軍、華亭侯に封じられた。219年11月には、劉備の任命した宜都太守の樊友は逃亡し、郡にある城の長官や居住する異民族達は陸遜に帰順した。陸遜は呉の朝廷より金銭や宝物を与えられると、それらを帰順してきた者に振舞った。部下の李異や謝旌に命じて、近隣の劉備軍の残党や支援者を追討させ、討ち取ったり捕虜にしたり帰順させた者の合計は数万人にも達したという。 この功績により陸遜は右護軍・鎮西将軍・婁侯となった[8]。さらに揚州牧の呂範に命じ、陸遜を州に招いて別駕従事とし、茂才に推挙したという。陸遜は全琮ら揚州の名族の子弟とともに呂範の風下に置かれるような立場であったという[9]。 陸遜は、新たに呉に服属した荊州の者達の多くが能力に応じた活躍の場が得られない状況を見て、その不満を取り除いてやるよう孫権に上奏した。孫権はそれに従った。 夷陵の戦い222年(黄武元年)、蜀(蜀漢)を興し自ら皇帝となった劉備は関羽の復讐と荊州の奪還のために呉との国境地帯に侵攻してきた。陸遜は孫権により大都督に任じられ、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら5万の軍の指揮を執って劉備軍と対峙した。諸将は古い軍歴を誇る宿将であったり、宗室に連なる身分であったりしたため、陸遜を侮るような態度をとり、陸遜を臆病者と揶揄したという。しかし、陸遜は剣に手をかけて軍令を遵守させた。
一方、孫権への手紙には、夷陵の重要性を述べ、劉備の戦術的な失敗から、あまり心配する必要はない、と書いたという。また、軍がそのような状況であってもなお、発生した騒動のことを報告してこなかった。この時、孫桓が夷道において敵に包囲されたときも、孫桓を信じて救援に赴かなかったため、孫桓に恨まれたという。劉備は盛んに呉軍を挑発したが、陸遜は伏兵を見破りそれに応じなかった。劉備軍の疲弊を見て取った陸遜は反撃に転じ、火攻めなどで攻撃し、退路を断って蜀軍を壊滅させ、劉備を白帝城に敗走させた(夷陵の戦い)。このときになって初めて諸将は陸遜を信頼し、また、窮地を脱した孫桓も陸遜の智謀の深さをさとって畏敬の念を表した。後に孫権も諸将の勝手な振る舞いを知って、陸遜を召見した際は「なぜ報告しなかったのか」と問い、「主上の恩を受け、実際の能力より重大任務を背負う事になりました。まして諸将は国を支える功労者です。臣は藺相如・寇恂のような人を慕い、国事を遂げようとする者であります」と答えた。孫権はこの言葉を気に入り、陸遜に輔国将軍を加官し、荊州牧とし、江陵侯に改封した。 劉備は白帝城にとどまり、本拠を移したため、徐盛・潘璋・宋謙は孫権に上奏し、劉備を捕えるため白帝城を攻撃する事を求めた。このことについて陸遜は孫権に意見を求められると、慎重論を主張していた朱然や駱統の意見に同意を示し、魏の曹丕は表向きは援軍と称して軍を進めてきているが、実は呉を攻撃する事を企んでいるから、それに備えるため軍を撤退させることを求めた。 まもなく曹丕は呉への攻撃の意思を示し、江陵など3方面から攻撃をしかけてきた。劉備は陸遜に手紙を送り、蜀から援軍を江陵に送ることを提案したが、呉蜀の国交が回復したばかりであることと、蜀軍は敗北で疲れきっており、国力の回復に努めるべきではないか、と意見し、これを断ったという[10]。 社稷の臣223年(黄武2年)4月、陸遜は丞相の孫邵や群臣一同と共に、孫権に帝位に即く事を進言した[11]。 劉備が崩御し、劉禅が蜀の皇帝に即位すると、諸葛亮が丞相として政権を握り、呉と蜀の国交は完全に回復するようになった。孫権は諸葛亮に手紙を送るときは、常に陸遜を通じて行い、また、自身の印璽を陸遜に預け、呉の蜀との外交文書は陸遜が添削した上で発行されるようにした。歴代で特別な待遇を受けた。 226年(黄武5年)春、孫権は民衆が疲弊し、耕地が放置されていることを憂い、その対策を求めた。陸遜は上奏し、諸将に農地を開墾されるよう願ったところ、孫権はその意見を褒め、自らも実践するよう取り計らった[12]。冬、陸遜は孫権に施策を上言し、寛容な政治を勧めるとともに、卑しい者達の売名目的の言葉に耳を貸さないよう願った。孫権は役人に命令して法令をすべて書き写し、郎中に命じて陸遜と諸葛瑾の元にそれを送り、加除修正させた[12]。 228年(黄武7年)、孫権が鄱陽太守の周魴に対し、偽りの降伏を魏に申し出て、10万の兵を指揮する曹休を石亭に誘い出させた上で、孫権は陸遜を大都督に任命し、曹休追討の指揮を執る事を命じた。そのことについて、陸機は「仮公黃鉞,統御六師及中軍禁衛而摂行王事,主上執鞭,百司屈膝(陸遜が黃鉞を授けられ、禁軍や六師を率いて王の役割を代行する。主上は自ら鞭を執って引見した。百官は膝を屈した)」と絶賛した。また、諸将の中で仮節を与えられた者は何名かいたが、仮黄鉞を与えられたのは呉では陸遜だけである。 陸遜は、朱桓・全琮にそれぞれ3万の兵を与えて左右の部隊の指揮を任せ、自身は中央の軍の指揮を執り、3部隊に分かれて同時に進軍した。曹休は騙された事に気づいたが、自身が指揮する軍勢が大軍であった事からそのまま呉軍との交戦に及んだ。曹休は伏兵を配置していたものの、陸遜はそれを蹴散らした上で曹休と戦って大いに破り、追撃をかけて夾石まで軍をすすめ、1万余の兵を斬ったり捕縛し、多くの馬や兵糧を奪い、車両など兵器類1万台を手にいれた(石亭の戦い)。曹休は賈逵や朱霊・王淩の援護により脱出することができたが、敗北の恥辱により背中に腫れ物が出来て死去した。 229年(黄龍元年)、孫権が皇帝に即位するのに伴い、上大将軍[13]・右都護の官を授かった。その年の秋、孫権は首都を再び建業に戻し、武昌には太子孫登や皇子達を置き、尚書の役所もそのままにした。太子の後見役のため陸遜を武昌に召し寄せ、荊州と揚州の三郡[14]の統治、それに軍事と国事の監督を委任した。孫慮が闘鴨に熱中していたため、これを直々に注意し、また、射声校尉の孫松が孫権の寵愛をいいことに職務に怠慢であった事から、係の役人に罰を与えるなど、皇子・公子達の教育係も務めた。陸遜は刑罰より礼を重んじるべきだと考えており、当時流行していた魏の劉廙の議論を批判し、その議論にかぶれていた南陽の謝景を叱責した。また、孫権にも上奏し、厳罰化の傾向を戒め、一度罪を犯した者にもなるべく機会を与えるよう嘆願した。 孫権が東方の島の経略に心を奪われ、夷州や朱崖を占領するため衛温と諸葛直の軍を派遣しようとしたときは、無用であると諫言したが、孫権はこれを聞かずに出兵させた。結局、陸遜の言葉通り、成果は得られなかった。また、遼東の公孫淵を服属させようとしたが、公孫淵は呉に反旗を翻したため遼東に親征しようとした。陸遜は、これにも反対した。孫権はこの進言は受け入れた。 234年(嘉禾3年)5月[15]、孫権は自らは合肥に出兵するとともに、陸遜と諸葛瑾に襄陽を攻撃させた。陸遜は腹心の韓扁という人物を送り、孫権に戦況を報告させたが、韓扁は沔中で敵と遭遇し捕虜となってしまった。諸葛瑾は機密が敵に洩れてしまった事に動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。諸葛瑾は陸遜には考えがあるのだと察した。諸葛瑾が陸遜の元を訪れると、陸遜は状況を冷静に分析した上で、撤退の作戦を教示した。陸遜と諸葛瑾はその作戦に従い、無事に撤退することができた。 陸遜は撤退の途中、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽り、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市・安陸・石陽を急襲させた。特に石陽の人々は油断していたため、動揺した敵の将は多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた。陸遜は軍に乱暴を禁止し、捕虜も優しくねぎらい、自由な帰宅も許した。そのため、魏の官民からは呉に帰属する者も多く出た。結局、陸遜と諸葛瑾らは江夏郡の安陸・石陽城を攻め落とした 魏の江夏太守の逯式は軍勢を率いてしばしば呉との国境を侵していたが、古くからの有力者である文休(文聘の子)とは不仲であった。陸遜はその事を聞き、逯式の呉への投降要望に対して迎える準備ができたという偽手紙を送って逯式を動揺させた。その様を見て江夏の将兵は逯式への信頼を失い、しばらくして逯式は免職となった。 237年(嘉禾6年)正月、将軍胡綜が、奔喪には厳罰で対応すべきと提議した。丞相顧雍は大辟に従うよう上奏した。その後、呉県県令の孟宗が母の喪に奔赴し、葬後に自ら武昌に拘置されて聴刑した。陸遜はその素行を陳べて請い、孫権はかくして孟宗の罪を一等減じた。2月、前年から反乱を起こしていた賊の彭旦らを攻撃し、その年のうちにこれを破った[12]。 同年、中郎将の周祗という人物は鄱陽において徴兵したいと申し入れてきたが、陸遜は鄱陽の住民の民心は不安定である事から賛成しなかった。しかし、周祗が強く主張したため、やむなくそれを許可した。結果、周祗は住民の呉遽の反乱により殺害され、豫章や廬陵の不服従民もこれに呼応し、周囲の諸県の治安も悪化した。陸遜は自ら反乱の平定を志願し、陳表(陳武の子)の力も借りてこの反乱を鎮圧し、呉遽を降伏させた。このときの投降者の中から8000人徴兵した。陸遜は陳表に偏将軍・都郷侯の官位爵位を授けた。長江沿岸の章阬の守備に当たった[16]。 この間、謝淵や謝宏という人物が経済や財政政策について意見を述べ、孫権から下問を受けると、陸遜は「国家の根本は民衆であるため、数年、万民たちの安寧を計り、財政が豊かになった上で再検討すべき」と論じた。 晩年と最期孫権が呂壱を信任し国政を乱すと、太常の潘濬と協力し、これを諌めた。孫権はのちに群臣達に陳謝した。 241年(赤烏4年)夏4月から6月の、孫権が全琮らに命じて起こした戦役(芍陂の役)に関する記述は見られないが、戦後となる秋8月には、江夏の邾で城を築いた記録がある[12]。 244年(赤烏7年)春正月に顧雍の後を継いで丞相となった。荊州牧・右都護・領武昌事の職務も引き続き担った。 このとき、既に孫登は死去しており、代わって皇太子となっていた孫権の三男の孫和と、四男の魯王孫覇がそれぞれ役所を持ち、各地の豪族も2人の宮にそれぞれが子弟を送り込む事態となっていた。全琮の報告を受けた陸遜は、豪族達に勝手な行動はさせないようにと述べた。のちに全琮もまた次男の全寄を魯王の役所に送り込み、全寄が皇太子の臣下と事をかまえるようになっている事を聞き、「あなたは金日磾を手本とされず全寄君を擁護しておられるが、いずれ一門に禍が及ぶ事になるでしょう」と批判する手紙を送った。こうして全琮と対立するようになった。 後継者問題が紛糾し、孫和廃立の声が強くなると、陸遜は上奏して嫡子と庶子の区別をつけるように述べた。さらに首都の建業に出向いて孫権を直接説得しようとした。しかしそれは許されなかった。また、陸遜の甥である顧譚・顧承・姚信は太子側についたということから流罪となった。また太子太傅の吾粲は陸遜に幾度も手紙を送っていたため獄に下されて死んだ。孫権は陸遜に譴責の書状を何度も送り、憤慨の中で陸遜は死去した(二宮の変)。享年63。 楊竺[17]は陸遜に関する二十条の罪状を告発した。これら陸遜に対する疑念は、子の陸抗が陸遜の故郷埋葬のために呉郡に戻り、宮廷に参内したときにすべて晴らした。251年(太元元年)に陸抗が病気治療のために都に上り、病が癒えて任地に戻るときには、孫権は陸抗の手をとって涙を流して謝罪し、陸遜に対する謝罪の言葉を述べた上で、自分の送った手紙はすべて焼き捨ててくれるよう嘆願した。 孫休の時代に昭侯との諡が追贈された。 人物
逸話韋昭の『呉書』には石亭の戦い後のお祝い会の話が収録されている。陸遜は曹休を破った後、当時の呉の首都である武昌に凱旋した。孫権は陸遜に皇帝同様の待遇を与え、労をねぎらった。孫権は左右に命じて御蓋で陸遜を覆わせて殿門を入出させ、凡そ陸遜に賜ったのは皆な御物でも上珍の品で、時に比肩する者は莫かった。孫権は大宴を開いたが、酒が盛り上がる時、陸遜に命じてを踊らせて、続いて二人で共に舞を踊った[注釈 1]。その踊りの褒美として自分で着る白いモモンガの毛皮で作った衣服とカワセミの羽で飾った帽子を賜った[19][20][21]。また、孫権は自らの黄金の帯を脱いで、陸遜に下賜し、自ら帯を締めてやった[22]。陸遜が西陵に帰還する際には、公卿らをあつめて陸遜のために道中の安全を祈願し、孫権は自らの船を一隻下賜し、七色の絹布と赤い染料を賜与した[23][24]。 陸遜は武陵の車浚の名声を聞き、面会を請うた。陸遜は「ご高名はかねがね伺っておりました。なぜ竜のように地に伏せていて、鳳凰のようにそびえ立って動かないで、呉に仕官しないのですか?」と問うたので、車浚は「確かに殿下(孫権)と将軍(あなた)は周公旦のように賢人を招き、孔子のように教えるのが上手であることを知っています。しかしトカゲは雲を頼りに上昇できず、スズメは暴風の中では飛べないので、仕官しなかったのです」と答えている。その時座っていた客の多くは呉の人で、「武陵郡にもこのような人材がいます」と言ったという。また車浚は「句呉の太伯は教化に優れていて、呉人に刺青の習慣を変えさせました。今、上には明君がいます。下には賢人が現れます。この局面は容易に得られるものではありません」と言った。陸遜は「この人がいれば、国は必ず栄えるだろう」と感嘆したという[25]。 綏靖天皇の漢風諡号である「綏靖」とは「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり、「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意になる。244年(赤烏7年)、陸遜が顧雍の後を継いで丞相となった際に下された詔の一部『君其茂昭明德,修乃懿績,敬服王命,綏靖四方。:「君は、その輝かしい徳をますます盛んなものとし、立派な手柄を立てるよう励み、謹んで王者の命に従って、四方の土地を安んずるように。」』が由来である。 一族元は呉の四姓と呼ばれる地方豪族であるが、陸遜をはじめとする一族は孫氏に重用されたことから大いに繁栄することとなった。陸抗の上書では「世荷光寵(代々君寵を受ける)」という認識もある。呉で陸氏一門は2人は丞相になり、十数人の将軍を輩出し、侯に封ぜられたのが5人(陸抗・陸景・陸凱・陸胤・他1人)にのぼった[26]。また呉の皇族と通婚関係を結んでいる。孫亮時期の全氏に続いて、呉の氏族の中では最も栄えることになった。隋唐まで陸氏一族は江南士族の代表とされている。 長男に陸延という人物がいたが若死し、陸遜の跡は次男の陸抗が継いだ。陸抗も呉に仕え、晩年には父と同様に荊州の軍権を任され魏との国境を守備し、西陵の戦いに勝利するなど、国難を退けた。孫の陸晏と陸景は晋の呉征伐のときに戦死した。また陸機は六朝文化を代表する詩人として知られ、呉の滅亡後も西晋に仕えて重用されたが、八王の乱に深く関わりすぎてしまったため、その最中に彼の名声を妬む人達の讒言によって謀反の疑いをかけられ、一族全員が処刑され陸遜の子孫は断絶した。弟の陸瑁の家系は存続し、子孫は東晋の重臣にまで昇進した。 一方、2021年5月、陝西省で北周の武将歩六孤亮の墓が発見された(歩六孤とは鮮卑語で陸を意味する)。墓碑銘に「本呉郡呉人……鼎族君即遜之後也」とある。つまり、墓主は陸遜の子孫であると認識している。断絶説に疑問を呈する意見もある。 評価『三国志』は主君を除いて諸葛亮と陸遜のみが一巻をもって単独で伝を立てられている。撰者の陳寿は、「劉備は、広く天下に英雄として名があり、当時の人々は皆彼を畏れはばかっていた。 陸遜は、ちょうど壮年に達したばかりで、その威名もまだ人々に知られてはいなかったのであるが、(その彼が劉備の)鉾先を打ちくじいて勝利を収め、全て計略どおりに事が運んだ。私は、陸遜の計りごとの巧みさを高く評価すると同時に、孫権がよく人の才能を見抜いて、 その人物が大きな事業を成し遂げられるよう取り計らってやった事にも感嘆する。陸遜は忠誠を尽し、国を憂いて身を亡ぼすことになったのだが、ほぼ社稷の臣といえるだろう」と評している。 一方、その『三国志』に注を入れた裴松之は、236年(嘉禾5年)に陸遜が自ら命じて行わせた石陽急襲により住民が多く被害を受け、その後に戦傷者を保護した一件を指して「無辜の民衆を酷い目に合わせた」「孫の代で一族が絶えたのは、この悪行の為であろうか」とまで言っている。また、後に魏の江夏太守の逯式を離間策で放免させた経緯に触れ、「わざわざ自らを卑しめる策略」「小賢しい詐術」と断じ、やる必要の無い事だったと疑問を呈している。 孫権は陸遜に「公瑾は勇敢で、膽略は人を兼ね、遂に孟徳を破り、荊州を開拓した。邈かにして継ぎ難く、君が今これを継いでいる」と言った。呉の家臣の中では能力は周瑜と並んで高く評価される。 陸機は陸遜を周瑜・呂蒙・魯粛と並べて、「宮中に入って腹心となり、地方へ出ては股肱となり」と評している。 唐の史館が選んだ中国史上六十四名将に選ばれている(武廟六十四将)。 東晋の袁宏の「三国名臣序賛」(『文選』所収)では魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛されており、その中に名を挙げられている[27][28]。 家系図
官歴
三国志演義では小説『三国志演義』では、孫権が呉の国主になったときに配下となった武将の一人として名があがる。「身長八尺(約184cm)、面如美玉」と体躯堂々たる美男として描かれている。書生(儒学者・知識人)と名乗る。正史で209年荊州争奪戦は参戦していない、周瑜とは全く面識もない、夷陵の戦い以前まで陸遜は無名だった。正史と違い赤壁の戦いと合肥の戦いも参戦している。正史でも演義でも、孫策や周瑜が陸康の領地を攻め落としたため、陸家は呉郡に避難した。孫策の死後、孫権が人材登用を行いた時に初めて孫氏政権に仕えた。呂蒙から代理役や後継者としての能力を認められ、陸遜を薦められた。 夷陵の戦いのときには闞沢が陸遜を推薦したが、無名に近かった彼の起用に張昭・顧雍らが反対している。陸遜の才能を知る孫権は、多数意見を力づくで排除して闞沢に同調し、皇帝の権力の象徴である尚方宝剣を授ける。夷陵の戦い後は張昭が、劉備が没した際に蜀を攻めるべきか悩む孫権に対して陸遜の意見を聞くよう進言している。また夷陵の戦いにおいては、『正史』では劉備を破った後、蜀軍を追撃しなかったが、『正史』と違い蜀軍の撃破後、追撃したが諸葛亮の石兵八陣の罠に命を落としそうになり、追撃を諦めることになっている。その後はほとんど登場しないが、諸葛瑾と同時期に死去した。また二宮事件に関する記述はなく、病没として扱われる。死後、諸葛恪が代わり政権を握っている。 脚注注釈出典
参考文献 |