孫 堅(そん けん)は、中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんだい)[3]。揚州呉郡富春県の人。妻は呉夫人。子は孫策・孫権・孫翊・孫匡・孫夫人・孫朗。廟号は始祖、諡号は武烈皇帝。
生涯
その出自
清代の『四庫全書』の記載によると、孫堅は春秋時代の兵家の孫武の子孫と伝えられている[4]。
熹平元年(172年)、孫堅が17歳の時立ち寄った銭唐県において海賊が略奪を行なっている状況に遭遇したため、それを見た孫堅は一計を案じた。見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍の指揮を執って海賊を包囲殲滅するかのような身振りをしたのである。それを見た海賊たちは大軍が攻めてくるものと勘違いし、我先にと逃げ出してしまった。この件で孫堅は有名となり役所に召されて仮の尉(警察・軍事担当)となった[1]。
各地で反乱鎮圧
司馬(軍事を司る職)になった孫堅は、172年から174年にかけて会稽郡で起こった許昌の乱を鎮圧した[5]。この乱の鎮圧後、孫堅はその功績により揚州刺史の臧旻によって上奏され、塩瀆県丞に任命される。数年後、盱眙県丞や後の下邳県丞に転任した。
光和7年(184年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、家族を九江の郡治寿春県に残した。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。朱儁が汝南・潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげていった。宛城の攻略においては、孫堅自ら先頭に立って城壁を登り、西南方面の官軍の指揮を執り大勝利を収めている[6]。この功績により、別部司馬となった。
中平3年(186年)、昇進すると同時に、涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧に向かう。当初、反乱鎮圧には中郎将の董卓があたっていたが、情勢は芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空の張温(後漢書董卓伝では、朝廷復以司空張溫為車騎將軍,假節…としている)が指揮を執り、孫堅はその参軍として従軍した。董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州での行動に際して董卓の力が必要と見ていた張温に退けられている。後日、董卓はこの事をいずこからか漏れ聞いて、張温と孫堅を深く憎むようになった。
後漢の討伐軍の大軍が来ると聞いた辺章・韓遂軍は、恐れをなして散りぢりになり、辺章と韓遂は降伏し、孫堅は議郎となった。
孫堅は荊州南部で起こった区星の反乱鎮圧の命を受け、長沙に太守として赴任して、様々な計略を用いて、この反乱を鎮圧した。区星の反乱を援助していた零陵や桂陽の二郡にも進出して、反乱を鎮圧した[7]。この時、廬江太守陸康の従子は宜春長であり、賊に攻められて孫堅に遣使して救援を求めた。孫堅が兵を整えて救援しようとしたところ、主簿が進みでて諫めた。孫堅は 「太守には文徳が無く、征伐を功としてきた。郡界を越えて攻討し、異国を全うするのだ。これによって罪を獲たとて、どうして海内に媿(は)じようか?」と答え、かくして兵を進めて往って救い、賊はこれを聞くと退走した[8]。この功績により孫堅は烏程侯に封じられた。
このように、各地で人材を手に入れ、転戦して実戦経験も十分に積んだ孫堅の軍団は、やがて軍閥化した[9]。
董卓との戦い
この頃、洛陽では董卓が実権を握った。永漢元年(189年)、董卓は少帝を廃位し、献帝を擁立、張温を占いの結果の吉凶にかこつけて殺害するなどの横暴を行った董卓に対し、初平元年(190年)、袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。孫堅もこれに応じて挙兵した。孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過した。この時、董卓への反意を表明していたものの、自らに対して日ごろから侮辱的な扱いをしてきた上司、荊州刺史王叡を殺害した[10]。
次に前進して南陽太守の張咨の元を訪れ、これも自分にとって禍になるとみて殺害した。さらに前進して魯陽の袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行、豫州刺史を領させた。
この後、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅が指揮を執る軍団は董卓軍とぶつかりあっていた。曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れ、孫堅軍もやはり徐栄に敗れたが、曹操が兵を補充しに戦線を離れたのに対して、孫堅は袁術の支援もあって即座に再起し董卓軍に挑み続け、初平2年(191年)の陽人の戦いで孫堅は敗残兵を集めて、梁県の陽人に駐屯した。董卓は大督護の胡軫・騎督の呂布を派遣して、陽人の孫堅を攻撃させた。しかし呂布と胡軫は仲が悪く、二人配下の兵士は慌てて逃げたが、孫堅は部隊を指揮して追撃し、呂布と胡軫を敗走させた。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李傕を使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅はこれを断った。孫堅は出撃して大いに董卓を破り、董卓軍の都尉華雄を討ち取った。董卓は遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って、長安へ逃れた。その際呂布は洛陽で孫堅と戦ったが、孫堅に再び敗れた[11]。孫堅は洛陽に入った。董卓は陵墓を荒らして宝物を奪い取っていたが、孫堅は陵墓を修復し、暴かれた箇所を塞いでから、再び魯陽の袁術のもとに帰還した[12]。
横死
孫堅は豫州刺史であったが、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したので、孫堅と袁術は周喁・周昂・周昕と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹の対立は決定的となり、反董卓連合軍は事実上瓦解し、諸群雄は袁紹と袁術の争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。孫堅と袁術は周喁・周昕を敗走させた。
初平2年(191年)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた[13]。孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)
[14]
[15]。享年37。
桓階が孫堅の遺体を劉表から取り戻した。孫堅軍は瓦解し、兄の子の孫賁はその軍勢を引き継ぎ、孫堅の棺を曲阿に送り届けた。後に寿春に移った袁術の傘下となった。
黄龍元年(229年)、皇帝となった次男孫権は、後に父孫堅の廟を長沙に、長兄孫策の廟を建業に建てた。
人物
立派な容貌で、性格は闊達であり、好んで他人にはまねのできぬような行いをしたという[16]。
評
孫破虜討逆伝に見える孫堅評
- 陳寿の評
- 「勇敢にして剛毅であり、己の力のみを頼りとして身を立て、張温に董卓を討つ事を薦め、董卓によって暴かれた洛陽の山陵を修復した。忠義と勇壮さを備えた烈士である」[17]
- 「行動が軽はずみで、結果を出す事を急ぐあまりに性急であった。そうした様が、自らを死に至らしめ、失敗する原因となった」[18]
- 裴松之の評
- 「同時代、義をもって立った人々の中で、最も忠烈の志があった」[19]
他伝に見える孫堅評
- 公孫瓚の評[20]
- 「董卓を蹴散らし、御陵や霊廟を掃き清めた。その功績は計り知れない」
孫堅の没年と死因
孫堅の没年と死因については、陳寿の『三国志』や裴松之が掲載した注釈、あるいは後の史書類によって異同が見られる。以下、列挙する。
- 陳寿の本文(『三国志』呉志 孫破虜伝)
- 初平3年(192年)、荊州の劉表を討伐しようとした際、単独行動中に黄祖配下の兵士によって射殺される。『三国志』魏志 劉表伝では、その後に李傕と郭汜の長安侵入が記載されており、孫堅の死は概ね1月から4月までの間と特定される。
- 『三国志』呉志 孫破虜伝・注『典略』
- 没年の記載なし。劉表は籠城を決め込む一方で黄祖を城外に出し、徴兵をさせた。城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北したが、茂みに隠れていた兵士が追撃をしてきた孫堅を射殺したとある。
- 『三国志』呉志 孫破虜伝・注『呉録』
- このとき37歳。本項では以上の3説を概ね採用した。
- 『三国志』呉志 孫破虜伝・注『英雄記』
- 初平4年(193年)正月7日に死去。死因は劉表配下の呂公が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによる。死因については『三国志演義』に採用された。なお、『演義』では初平2年11月に死亡したとする。
- 『三国志』呉志 孫討逆伝・注『呉録』内、孫策の上表
- 孫堅が死んだとき、孫策は17歳だったと記載している。
- 『三国志』呉志 孫討逆伝・裴松之の考察
- 孫策の享年(26)から逆算すると、初平3年のとき孫策は18歳であったはずであり、『呉録』上表の記述と一致しない。また、『漢紀』と『呉歴』はそれぞれ初平2年(191年)に死亡したと記述しており、こちらが正しく本伝は間違っていると断定する。
- 『後漢書』孝献帝紀
- 初平3年、界橋の戦い(袁紹と公孫瓚との戦い)の前に記載。董卓の死はさらにその後である。
- 『資治通鑑』巻60・漢紀52
- 初平2年の条に記載。
家系図
関連人物
血族
配偶者
- 呉夫人…呉景の姉、4人の男子と1人の女子を産んだ。
呉夫人の子
庶子
不明
兄弟
- 孫羌…同母兄
- 孫静…末弟
- 孫氏…妹、徐真の妻、徐琨の母。江東平定時、陣中で蘆葦渡江計を献策する。結果は劉繇や笮融を撃破された。『三国志集解』で盧弼は「兄の遺風がある」と称賛した。
甥(従子・族子)
姻族
義弟
配下
『三国志演義』において
- 第二回、黄巾軍の残党の一味である韓忠が守る宛城を皇甫嵩と劉備が攻めている最中に、官軍側の援軍として手勢や義勇兵を率いて駆けつける。彼の容姿は「広い額、大きな顔、虎のごとき体、熊のごとき腰」という堂々たる威丈夫ぶりで描写されている。この時の孫堅はすでに海賊退治や許昌討伐において名を挙げ、下邳県の丞の職にあった。宛城を落とした際に南門攻撃を担当、敵将の趙弘を自ら討ち取るなどの功によって別部司馬に任ぜられる。後に区星の反乱を十常侍の密命により長沙太守として討伐し、烏程侯に封ぜられた。
- 第五回、『演義』において結成される反董卓連合軍に参加した諸侯の一人として登場。長沙太守という肩書きに、江東猛虎の二つ名、程普、韓当、黄蓋、祖茂ら四将を率いる陣容とともに、その姿は「白銀に光り輝く鎧を身に付け、赤頭巾を被り、腰には古錠刀をさげ、乗騎は斑のたてがみ」と語られている。董卓への先鋒として名乗りを上げ、初戦で胡軫を討ち取るなど活躍する。しかし、孫堅の活躍に嫉妬した袁術が兵糧を送らなかったために苦戦し、華雄に敗れて追い立てられる中で祖茂を失う。
- 第六回、孫堅は董卓の政略結婚による懐柔をそでにし、焼け落ちた洛陽の復興作業に着手して陵墓を塞ぐ。その最中、宮中の古井戸に身を投げた貴人の遺体から印璽を発見する。程普によって印璽が伝国の玉璽だと判明すると、野心を胸に抱くようになり、発見した玉璽を隠匿する。その現場を目撃した者が袁紹に告げ口したので、孫堅は諸侯の前で釈明を求められる。孫堅はそこで「真実、私が玉璽を隠匿していたなら、命を全うすることなく戦禍によって死ぬ事になるだろう」[25]と啖呵を切り、嘘をつき通したので、諸侯はその言葉を信用する。しかし、袁紹が証人を場に呼ぶと、孫堅は咄嗟に剣を抜き、切り捨てようとする。これら一連の行為によって分の悪くなった孫堅は、洛陽からいち早く陣を引き上げる。諸侯は疑心暗鬼に陥り、反董卓連合軍は解散。ますます疑いを深めた袁紹は、帰途にある孫堅を劉表に攻撃させ、玉璽を奪う事を画策する。
- 第七回、長沙に帰還を果たしたものの、劉表に帰還を妨害された孫堅は兵の大半を失い、劉表に恨みを抱く。些細な事で袁紹と不和になっていた袁術は、孫堅に劉表を攻撃させる事で、袁紹の力を削ぐ事を企て、孫堅に対して江夏攻略を命令する。この戦いにおいて孫堅は、黄祖の守る樊城を落とし、襄陽を包囲すると、囲みを解こうと出撃した蔡瑁にも圧勝する。その最中、包囲軍本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風で折れるという凶事が起こった。このため、韓当が「これは不吉の兆しなので退くべきでは」と進言する。しかし、孫堅は聞く耳を持たずに出陣し、蒯良の策謀で呂公がしかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰されて死亡した。その死体は劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖の身柄と引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。
脚注
- ^ a b 三國志呉書·孫破虜討逆傳 (中国語), 三國志/卷46#孫堅, ウィキソースより閲覧。 - 少爲縣吏。年十七,與父共載船至錢唐,會海賊胡玉等從匏里上掠取賈人財物,方於岸上分之,行旅皆住,船不敢進。堅謂父曰:「此賊可擊,請討之。」父曰:「非爾所圖也。」堅行操刀上岸,以手東西指麾,若分部人兵以羅遮賊狀。賊望見,以爲官兵捕之,卽委財物散走。堅追,斬得一級以還。父大驚。由是顯聞,府召署假尉。會稽妖賊許昌起於句章,自稱陽明皇帝,〈靈帝紀曰:「昌以其父爲越王也。」〉與其子韶扇動諸縣,衆以萬數。堅以郡司馬募召精勇,得千餘人,與州郡合討破之。是歳,熹平元年也。
- ^ 三國志呉書·孫破虜討逆傳 (中国語), 三國志/卷46#孫堅, ウィキソースより閲覧。 - 初平三年,術使堅征荊州,擊劉表。表遣黃祖逆於樊鄧之間。堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,爲祖軍士所射殺。〈典略曰:「堅悉其衆攻表,表閉門,夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還,堅逆與戰。祖敗走,竄峴山中。堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。」呉録曰:「堅時年三十七。」
- ^ “吳書·孫破虜討逆傳”. 三国志. 46. https://zh.m.wikisource.org/wiki/三國志/卷46. "孫堅字文臺、吳郡富春人、蓋孫武之後也。"
- ^ 本文中の記述は、陳寿著『三国志』呉志 孫破虜討逆伝による。また、南朝宋に書かれた『異苑』によると、瓜売りをしていた孫鍾という人物が孫堅の父とある。また、同じく南朝宋の文献と見られ、孫鍾が記述された『幽明録』(現在は散逸)にもその名が記載されているという。さらに、東晋の裴啓が著した『裴子語林』にも孫鍾の事項が記されているともいう。
- ^ ここでいう許昌は、河南省許昌市ではなく人名である。会稽出身の人で、皇帝を名乗り、句章(現在の浙江省寧波市)周辺で乱を起こした宗教指導者だと伝わる。この反乱に数万人が加担した。
- ^ 『三国志』呉志 程普伝によると、孫家三代に仕え、孫軍団の中核を担う程普は、この黄巾軍討伐の間に孫堅の軍団に参加している。
- ^ 『三国志』呉志 朱治伝によると、数年後に孫策の勢力拡大に貢献する丹陽の朱治は、この荊州南部での反乱鎮圧中に加わっている。
- ^ 『呉録』
- ^ 『三国志』呉志 黄蓋伝 によると、赤壁で偽降によって曹操を欺いた零陵の黄蓋は、これら各地での転戦の内いずれかの時点で配下となったとされる
- ^ 『呉録』によると、王叡殺害は、おおむね以下のような背景と流れで行われたとされる。
- 王叡は董卓を討つ義兵を起こす前、孫堅が荊州南部で反乱鎮圧を行っていた頃から、彼を武辺者と侮って、言葉による辱めを与えていた。
- 王叡は、孫堅と同じく自身の指令系統下部に属する、武陵太守の曹寅と仲が悪く、「董卓よりも先に、まずは曹寅を殺害してやる」と放言していた。
- 王叡の言葉に恐れをなした曹寅は、公文書を偽造して、孫堅に対して王叡を討てとの朝廷の命令が下ったかのように計った。
- 曹寅が偽造した命令書を受け取った孫堅は、すぐさま兵士を率いて王叡の城を包囲した。
- 王叡は、城が孫堅の兵士に囲まれていると知ると、城を囲む兵士の一人に用向きを聞き、物資を必要としていると知ると、兵士たちを城に招き入れてしまう。
- 兵が至近に近づいた時に、はじめて孫堅の姿を確認した王叡は、孫堅に対して、兵士たちの監督が行き届いていないと詰る。
- 孫堅は王叡の言葉に対して、「朝廷の命によって王叡どのを誅殺しに参ったのだ」と告げる。「自分に何の罪があるのだ」と叫ぶ王叡に対し、孫堅は「ご自分が今、どのような状態にあるかわからない事が罪なのだ」と答える。
- 王叡は進退窮まり、金を飲み込んで服毒自殺を遂げた。
- この事件に対する評価
- 『三国志』魏志 公孫度伝・注『魏略』によると、太和2年(228年)、魏国朝廷は公孫淵に送った公文書において、孫堅が荊州刺史王叡を殺害した事例を引いて孫呉を非難した。そのような人間の子である孫権は、恩を仇で返す人間だから信用してはならない。公孫淵が背いて呉と同盟するのは愚かな事だ、としている。
- ^ 『後漢書』
- ^ 『江表伝』によると、孫堅は洛陽復旧の最中、伝国璽を発見したという逸話がある。裴松之は「孫堅は忠烈の士であるから、手に入れたなら世間に公表したであろう―(中略)―『江表伝』に有るとおりに孫堅がもしも伝国璽を手に入れていたなら、それは孫氏に伝わっているはずである。こうした宝物を秘匿してよいはずがない」(よって、そのような事実はなかったのだ)と反論している。
- ^ 『三国志』魏志 劉表伝 によると、劉表はもともと、孫堅が殺害した荊州刺史王叡の後任に就くよう、朝廷から詔勅を受けていた。しかし、着任を袁術に阻まれたことで襄陽へ逃れ、後に袁紹と結び、袁術と敵対するに至っている。
- ^ 『三国志』呉志 本伝では「祖の軍士の射殺する所と為る」。『後漢書』劉表伝では「堅、流箭の中る所と為りて死す」とある。
- ^ 『三国志』呉志 孫堅伝の注によれば、劉表の部下の呂公が落とした石に当たって即死した。
- ^ 『呉書』
- ^ 原文「勇摯剛毅、孤徴発迹、導温戮卓、山陵杜塞、有忠壮之烈」
- ^ 原文「軽佻果躁、隕身到敗」
- ^ 原文「於興義之中、最有忠烈之思」
- ^ 『三国志』魏志 公孫瓚伝・注『典略』
- ^ 『三国志』呉志 潘濬伝 が引く『呉書』に記述。
- ^ 『三国志』呉志 諸葛瑾伝に記述。
- ^ 孫ではなく子の説もある。
- ^ 『三国志』呉志 三嗣主伝 が引く『呉録』に記述。
- ^ 小説『三国志演義』の作者羅貫中は、登場人物の台詞を次回以降の展開への伏線として用いる手法を好んで使っている。
参考文献
外部リンク
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。