陸軍管区表陸軍管区表(りくぐんかんくひょう)は、1888年から1945年まで、日本陸軍の管区を公表した法令である。この管区は、平時の担当地域を指すもので、戦時の作戦地域・配置を示すものではない。また1939年までは内地のみで植民地には及ばなかった。1945年の敗戦とともに意義を失ったが、法令としては1946年まで形式的に存続した。 密接に関連する法令として、平時における陸軍の部隊の所在地を記した陸軍常備団隊配備表があった。 法令の制定と改廃陸軍管区表と陸軍常備団隊配備表は、鎮台制を師団制に変更した1888年(明治21年)5月12日に勅令によって制定された。末期の鎮台条例には、地域区分を示した七軍疆域表、部隊を示した七軍管兵備表、部隊の屯営を示した諸兵配備表が付属していた。このうち七軍疆域表を引き継いだのが陸軍管区表、七軍管兵備表と諸兵配備表を結合したのが陸軍常備団隊配備表である。なお、鎮台条例本文を継承した法令は、同日に勅令で制定された師団司令部条例である。陸軍管区表は勅令として制定、改正されたが、1907年(明治40年)から軍令に代わった。改正は勅令第xx号(xxには番号が入る)、あるいは軍令陸xx号、という形で公布された。 陸軍管区表は、府県と郡区市町村によって、管区の範囲を示す。部隊名は記されていないが、どの部隊がどの管区に対応するかは、常備団隊配備表と照らし合わせればおおよそ推定できる。常備団隊配備表は日本陸軍の部隊一覧であるから、軍事情報としての価値を持ち、秘密にされた時期もあった。陸軍管区表は徴兵事務の担当範囲を示すもので、市町村役場まで周知する必要があり、一貫して『官報』で公表された。 1945年(昭和20年)8月の敗戦と陸軍の解体にともない、意義を失った。形式的な廃止は、第一復員省により1946年(昭和21年)3月31日になされた[1]。 管区の構造
陸軍管区表が示す管区の階層・名称は時代によって異なる。 制定時の1888年(明治21年)には、北海道を除く全国を6つの師管に分割し、各師管に2つの旅管、各旅管に4つの大隊区を置いた。師管は師団、旅管は旅団が管轄するが、連隊には対応する管区がなく、大隊区が大隊区司令部の管轄となった。佐渡島、隠岐島などの主要な島には旅管の下に警備隊区を設けた[2]。 1896年(明治29年)には、7師管のうち6師管を2分するとともに、旅管と大隊区を廃止し、連隊区司令部が管轄する連隊区を設けた。1師管の下には4連隊区が置かれた[3]。師団数を倍増する際に、陸軍は旧制度で1師管・2旅管・8大隊区であった地域に、2師管・8連隊区を置くことにした。この措置により、新しい師管は旧旅管の区割りを、新しい連隊区は旧大隊区の区割りを継承することになった。このときは近衛師団にも師管が割り当てられたが、1899年(明治32年)に廃止され、第1師管が8連隊区を擁することになった[4]。なお、分割されなかったのは1894年(明治27年)に北海道に置かれた[5]第7師管である。 1903年(明治36年)に旅管が復活し、師管と連隊区の間に置かれたが[6]、1924年(大正13年)にまた廃止になった[7] 島に置かれた警備隊区は、1918年(大正7年)6月に沖縄警備隊区が連隊区に換わり[8]、1920年(大正9年)8月に対馬警備隊区が廃止されたことでなくなった[9]。 1939年(昭和14年)8月に、植民地の朝鮮と台湾に兵事区を設け、陸軍管区表に「其ノ二」として表を追加した。従来の内地の表は「其ノ一」となった[10]。兵事区は地区としては内地の連隊区に相当し、連隊区司令部に相当する陸軍兵事部が担当した[11]。兵事区と兵事部は1941年(昭和16年)11月に関東軍支配下の満州にも設けられた[12]。1942年(昭和17年)8月には中国(支那)にも陸軍兵事部が置かれたが、そこでは管区まで法定されなかった[13]。 日中戦争・太平洋戦争が進んで部隊数が激増すると、管区を増やすのではなく、管区と師団・連隊との結びつきを解消する方向で改革が進んだ。まず1940年(昭和15年)8月に、師管の上に軍管区を置くとともに、師管の名を師団番号と一致させる方式をやめ、地名によって名付けることにした[14]。1942年(昭和17年)4月からは、連隊区の範囲を府県と完全に一致させた。これにともない1師管に属する連隊区の数に3から5の幅ができた[12]。そして1945年(昭和20年)4月に師管を師管区と改称し、師団と別に師管区司令部を置いた[15]。 管区と部隊の関係
管区と部隊の関係は、司令部による管轄と、徴集兵の配属との両面から見なければならない。 司令部と管区の関係司令部・司令官は管区の警備・防衛を担うとともに、徴兵、後備役・予備役の将兵の召集と部隊編成、後には学校での教練、地域住民との交流をも業務とした。区割り変更の移行期間など特別な事情がある場合には一時的に隣の管区を管轄することもあった。 原則としてすべての管区は一人の司令官が管掌するが、部隊の司令官のすべてが管区を掌るわけではない。 まず、大隊区と連隊区を管掌するのはそれぞれ大隊区司令官(大隊区司令部)・連隊区司令官(連隊区司令部)で、部隊を率いる大隊長(大隊本部)や連隊長(連隊司令部)ではない[16]。 それから、師団と師管の関係は、はじめは師団司令部が師管を管掌する表裏一体の関係であったが、時代が下ると対応関係が緩み、最後の師管区制にいたってまったく関係がなくなった。師団制のはじめ、つまり陸軍管区表制定の当初には、近衛師団を例外として、常備師団はすべて一つの師管を持ち、師管はすべて一つの常備師団に管掌されるという一対一の対応関係があった。この師団が戦争でみずからの師管の外に出ると、残された師管には留守師団が置かれた。徴兵・訓練を続行し、出征部隊に補充を送り、新設の部隊を編成して送り出すのが留守師団の任務である。戦時に臨時に作られる師団は、既存の師管から動員・編成されるので、管掌する師管を持たない。 1915年(大正4年)に朝鮮を衛戍地とする2個師団を置いたとき、徴兵制をとらない朝鮮には師管を設けなかった。こうして師管を持たない常設の師団が生まれた。ただし、朝鮮の師団にも法定されないだけで警備や地域向け業務の担当区域はあった。 その後、日中戦争がはじまった1937年(昭和12年)以降には、師団が多数増設された。それらは臨時のものも常設を予定したものも、既設の師管から動員され、自らの管区を持たなかった。また、新たに設けられた戦車師団、飛行師団など歩兵以外の兵科の師団も管区を持たなかった。こうして、師管を持つ少数の師団と、持たない多数の師団という違いが生まれた。師管を持つ師団も多くは内地を離れ、実際の業務は留守師団が行っていた。こうした変化を受けて、1942年(昭和17年)に連隊区と特定の歩兵連隊との対応関係をなくし、1府県に1連隊区を置くことにした[12]。1945年(昭和20年)4月には、留守師団を師管区部隊と改称し、作戦部隊と管区業務はまったく分離されることになったのである[15]。 徴兵と管区の関係管区の司令官にとってもっとも重要な業務は、徴兵であった。徴兵された兵士は、その管区の部隊に入るのが原則であった。どの範囲でまとめるかは、兵科による違いがあり、歩兵は、大隊区または連隊区を単位として、その区で徴兵された兵士を該当する大隊・連隊に入隊させた。歩兵以外の兵科は、師管を単位として、その師管を管掌する師団配下の部隊にまとめた。師管を持たない近衛師団には、全国の師管から選抜された兵士が送りこまれた。同様に、師団以外の部隊・組織が必要とする人員も、師管が分担した。 師団隷下の部隊を地元の兵士で構成したのは、現役を退いてそれぞれの自宅に住んでいる後備役・予備役の兵士を、戦時に速やかに召集するためであった。全国から歩兵・騎兵を徴集した近衛師団は戦時編成の完結に時間がかかることになるが、それは、天皇の護衛にあたる近衛師団は他師団に遅れて戦場に投入されるだろうという見込みのもとに許されていた[17]。この制度にもとづいて地元出身兵で構成された部隊は、明治末以降、「郷土部隊」「郷土師団」「郷土連隊」などと呼ばれ、郷土部隊応援を通じて陸軍への支持・共感を調達する装置になった。 師管と師団が一対一で対応していた時代には、各師管・各連隊区の間で人口に大きな差が出ないように区割りする必要があった。徴兵検査を受けた者のうち、実際に現役兵となって入営するのは一部にとどまったので[18]、管区の人口が少ないからといって人数が足りなくなるようなことはない。しかし、徴兵率に地域差が生まれるのは好ましくないと考えられていた[19]。地域の不均衡は、師団以外の部隊・組織に出す人数を増減することでも調整できた。それでも、区割り変更によって差を解消する必要が度々生じた。徴兵事務は府県・市町村と大隊区・連隊区の司令部が連絡して行うので、陸軍の管区境界が一般的な行政境界と一致するほうが便利だが、以上のような事情で府県界をまたぐような線引きも少なくなかった。 区割り変更でも対応できなかったのは、人口が少ない北海道を基盤にした第7師団で、日露戦争のとき過半数が関東や東北地方出身の兵士で構成されていた。その後も管区内からの徴兵では定員を充たすことができず、他師管から回された兵卒で補う状態が1930年頃まで続いた[20]。朝鮮の第19・第20師団は発足から最後まで内地の師管に頼った。同様に他師管からの兵員に頼る師団以下の部隊は日中戦争後に激増した。師管持ち師団の比重が小さくなると、不均衡調整に利用できる員数が多くなり、人口格差を気にする必要はおのずとなくなっていった。 年表制定から廃止までを示す。特に記さない限り、年月日は施行の日である。制定日と施行日が離れている場合には、制定日も記す。★を付けたものは、表か付いているもので、たいていは大きな改正である。
脚注
参考文献
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