阿部 正勝(あべ まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家の家臣。徳川家康の1歳年長で、家康の幼少期から側近くに仕えた人物である[1]。
生涯
少年期
天文16年(1547年)、6歳の家康(松平竹千代)が今川義元の命によって駿河国に向かった際に同行した[1]。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によればこのとき正勝(徳千代)は7歳[1]。『徳川実紀』によれば正勝は6歳で、家康の「あそびの友として御輿につけて同じくのせてつかはさる」とある[3]。家康はその後織田方に抑留されるが、正勝は尾張まで同行し、天野康景(三之助)[3][注釈 1]とともに熱田で家康に供奉した[1]。
天文18年(1549年)、今川家と織田家の人質交換により家康は駿府に移るが、この際にも正勝は従って家康の側に仕えた[1]。今川義元が家康に散楽を所望した際には、正勝が家康に代わって披露したという[1]。『寛政譜』によれば弘治2年(1556年)、家康とともに元服し[注釈 2]、「善九郎正勝」と名乗った[1]。その後、今川家の家臣・江原三右衛門定次の娘を娶った[1]。
永禄元年(1558年)、家康の初陣である三河国寺部城の鈴木重辰攻め(寺部城の戦い)に従軍、次いで広瀬・挙母・伊保城攻めにも参加して功績をあげ、知行地を得た[1]。
家康の自立後
永禄3年(1560年)、義元の尾張出兵(桶狭間の戦い参照)の先陣を家康が任された際には、正勝は旗本を守った[1]。永禄5年(1562年)、家康の命を受け、伊東法印が所持していた軍書48巻の写本を作成して献上した[1]。
三河一向一揆の際には家康に仕えて奮戦し、葵の紋の馬験(馬印)を許された[1]。正勝は遠慮して葵紋を薄墨で描き、「染薄墨御紋の馬験」と名付けて用いた[1]。
天正元年(1573年)からは天竜川方面で武田勝頼との戦いに従事し、天正3年(1575年)の長篠の戦いでも軍功を挙げた[1]。また、天正4年(1576年)には、非義が露見した徳川家家臣の佐橋甚五郎を誅殺している[1][注釈 3]。
天正10年(1582年)、若神子の対陣(天正壬午の乱参照)の折には、北条氏との和睦の使者を務めた[1]。天正13年(1585年)12月、家康が本多正信・大久保忠隣・牧野康成(半右衛門)の3人を旗本や分国諸士の献策の窓口とすることを触れた際、阿部正勝にその得失をはかるよう命じた[1]。のち、正勝は御旗大将に任じられ、知行地を加えられた[1]。天正14年(1586年)、家康が豊臣秀吉と和議を結ぶと、家康の上洛に同行し、のちに従五位下伊予守に叙任された[1]。
家康の関東入国後
天正18年(1590年)の小田原の役では旗本の右軍の備を担った[1]。同年、家康が関東に入国すると、武蔵国足立郡鳩ヶ谷で5000石の知行地を与えられた[1][注釈 4](継嗣の正次の代に加増を受け、鳩ヶ谷藩となる)。
文禄元年(1593年)には家康の肥前国名護屋城行きに同行した[1]。なおこの際、息子の阿部正次が家康に随行することを切望するあまり、命令に背いて密かに行列に加わり、これが発覚して江戸に送還されるというトラブルを起こしている[2]。慶長元年(1596年)、豊臣姓を下賜された。慶長3年(1598年)、大坂城西の丸の留守居役を務める[1]。慶長4年(1599年)の「伏見騒動」の際には、伏見の徳川屋敷に馳せ参じて守備に当たった[1]。
「伏見騒動」の頃には健康を害していたらしく、家康から薬の処方を与えられている[2]。慶長5年(1600年)、正勝がいよいよ危篤となると、家康は村越直吉を派遣して「懇ろの仰せ」を伝えさせた[2]。慶長5年(1600年)4月7日、大坂で死去した[2]。60歳没[2]。
家督は長男の正次が継いだ。
系譜
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[7]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
- 父:阿部正宣
- 母:不詳
- 妻:江原定次の娘
- 生母不詳の子女
補足
備考
- 家康と共に駿河に在った際、今川義元は梅の実を貫いた槍を家康に、梅の穂を貫いた槍を正勝に与えた。家康は自らに与えられた槍を「梅実」と名付け、正勝に与えられた槍に「梅総」と命名した[1]。
登場作品
脚注
注釈
- ^ 『寛政譜』の阿部家の譜では、正勝と共に熱田で家康に供奉した人物を「天野三之助某」と記す[1]。天野家の譜では康景らが尾張で付き従った(「康景等わづかに三人御小性となりて扈従す」)と記しているが、康景の幼名・通称としては「又五郎」「三郎兵衛」のみを記し、「三之助」はない[4]。『徳川実紀』には「天野三之助康景」の名がある[3]。
- ^ 家康の元服は天文24年=弘治元年(1555年)とされる[5]。
- ^ 『寛政譜』によれば、甚四郎は「甘利二郎三郎某」の寝首を取り「偽りて」再び家康に仕えた。このことが「非義」とされ、「始末露見せしにより」家康の命で誅殺された[1]。
- ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では、「伊豆国市原」で5000石とある。「伊豆国市原」の出典は『改正三河後風土記』であるが、同書には「武蔵国市原」「武蔵国鳩具」とする写本もあるという[6]。
出典
参考文献
外部リンク