阪井重季
阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(弘化3年11月24日) - 1922年(大正11年)3月1日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。旧名・元助(二川元助、二川元助重遠)。家紋は四つ星。 経歴土佐国土佐郡(高知藩)高知城下の高知中島町において、土佐藩士(馬廻役、300石[1]。)・二川周五郎の長男として生まれ、後に阪井に改姓した。生家の中島町は板垣退助、片岡健吉の出身地であり、家が近所であった。 戊辰戦争に従軍し、1870年、大坂兵営予備生徒[2]となる。翌年、御親兵として上京、陸軍大尉に任官し8番大隊副官となる。近衛6番大隊副官、広島鎮台地方司令官心得などを経て、1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。歩兵第24連隊大隊長、歩兵第12連隊大隊長などを歴任し、1877年3月から10月まで西南戦争に従軍した。 歩兵第13連隊長、歩兵第11連隊長、名古屋鎮台衛戍司令官、歩兵第17連隊長などを経て、日清戦争末の台湾に近衛歩兵第2連隊長として出征。1895年10月、陸軍少将に進級し、死去した山根信成少将の後任として近衛歩兵第2旅団長となる。歩兵第10旅団長、近衛歩兵第2旅団長などを歴任し、1902年6月、陸軍中将となり予備役に編入。日露戦争勃発により召集を受け、留守第1師団長の後、後備第1師団長として奉天会戦に参加、1906年3月、召集解除となった。同年3月16日、後備役に編入され[3]、1909年4月1日に退役した[4]。 1907年9月、男爵を叙爵し華族となり、牛込区議、富士生命社長を務めた。1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に当選し[5]、死去するまで在任した。墓所は青山霊園[6][7]。 栄典
親族脚注
参考文献
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