関矢橘太郎関矢 橘太郎(關矢、せきや きちたろう[1][2] / きつたろう[3]、1863年10月26日(文久3年9月14日[4])- 1912年(明治45年)4月10日[5][6][注釈 1])は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県北魚沼郡下条村長。諱・忠和、号・雙柳[1][2]。 経歴越後国魚沼郡並柳新田(新潟県[3]北魚沼郡並柳村[1]、下条村、広瀬村、広神村並柳[2]を経て現魚沼市)で、素封家・関矢孫左衛門の長男として生まれた[1][2]。 1881年(明治14年)地域の冬期副業として機織工場(殖産会社)を設立して頭取に就任[1][2]。1883年(明治16年)同志と益友会を組織し教育補修、知識の交換、学術の錬磨を図った[1][2]。1897年(明治30年)小出町に病院を設立[1][2]。1899年(明治32年)小千谷石油の設立に参画し取締役に就任[3][6][7]。その他、小出銀行監査役、日本石油重役、魚沼鉄道(魚沼線)重役、銀山拓殖重役などを務めた[3][6]。 政界では、下条村長、魚沼郡会議員を務め、1894年(明治27年)新潟県会議員に選出され、同参事会員、地方森林会議員にも在任した[3][6]。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(新潟県郡部、憲政本党)で当選し[8]、衆議院議員に1期在任した[3][6]。任期途中の1912年4月に死去した[5]。 親族脚注注釈
出典参考文献
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