長崎大学病院 (ながさきだいがくびょういん、英語 : Nagasaki University Hospital )は、長崎県 長崎市 坂本にある大学病院 。医学部 と歯学部 の附属病院である長崎大学 医学部・歯学部付属病院から改称。長崎県内にある唯一の大学病院 である。2014年の患者数は、医科外来303,453名、歯科外来100,364名、医科入院263,869名、歯科入院7,958名である[ 1] 。
沿革
江戸時代
1857年 (安政 4年)
11月12日 (陰暦 9月26日) - 長崎奉行所 西役所(現長崎県庁 所在地)に医学伝習所 が開設される。
この後、伝習生が増加したため、大村町(現 江戸町・万才町)11番地の高島秋帆 邸内の西北隅の一屋(現 長崎地方裁判所あたり)に移転し、大村町医学伝習所 と改称。
ポンペ、大村町医学伝習所で初めて公開の種痘 を行う。小児8名に実施。
ポンペ、大村町医学伝習所に「舎密 (せいみ)試験所」を開設し、上野彦馬 が入門する。
1859年 (安政6年)
8月13日 - ポンペ、許可を得て3日間、西坂刑場で死刑囚の死体解剖実験を実施。受講生は46名、シーボルト の娘イネも参加。
1860年 (万延 元年)
1861年 (文久 元年) - この年を基準に創立年数が数えられている 。
8月6日 - 養生所 が完成。
教頭をポンペ、頭取を松本良順が務める。
様式8病室、124床、手術室・隔離室・浴室・調理室を持ち、別棟に講義室と寄宿舎を備える日本初の近代的西洋式病院であった。
8月16日 - 養生所開所式と医学所開所式を挙行。
8月17日 - 診療を開始。
1865年 (慶応 元年)4月 - 奉行服部長門守が養生所を精得館 (せいとくかん)と改称。医学所をその附属機関とする。
明治
1868年 (明治 元年)10月17日 - 長崎府 医学校 ならびに病院 と改称。
校長を長与専斎が、教頭をマンスフェルトが務める。
大学・小学の2科を設置し、医学校規則・病院規則・薬局掟等を制定。
1869年 (明治2年)7月9日 - 長崎府から長崎県への改称に伴い、長崎県病院医学校 と改称。
1870年 (明治3年)2月28日 - 長崎県病院医学校が大学所管となる。
1871年 (明治4年)
1872年 (明治5年)8月18日 - 長崎医学校が第六大学区医学校と改称。
1873年 (明治6年)4月10日 - 学区変更に伴い、第五大学区医学校と改称。
1874年 (明治7年)
5月 - 第五大学区医学校が長崎医学校に改称。
10月12日 - 征台の役 に際し、長崎病院を公兵員 病院とするために長崎医学校を廃止。学生は東京医学校 に転学。
11月1日 - 長崎医学校の廃止に伴い、蕃地[ 注釈 4] 事務(支)局病院 となる。
征台軍の疾病兵は長崎に運ばれ、蕃地事務(支)局病院に収容された。
1875年 (明治8年)
4月31日 - 征台の役の終結に伴い、蕃地事務(支)局病院が長崎県の所管となり、長崎病院 に改称。
5月14日 - 院長に吉田健康 が就任。
この頃から長崎医学再興の議論が起こり、3年間政府の補助を受けることが決定される。
1877年 (明治10年)12月10日 - 長崎病院医学場から長崎医学校への改称が許可される。
1878年 (明治11年)1月8日 - 長崎病院医学場が長崎医学校に改称。吉田健康院長が校長を兼務。
1882年 (明治15年)5月27日 - 医学校通則制定により、長崎医学校は甲種長崎医学校(普通の医学科を教授する学校)となる。
1887年 (明治20年)- 長崎県立長崎病院 と改称。
1888年 (明治21年)4月10日 - 長崎医学校が廃止され、第五高等中学校医学部に改称。
1891年 (明治24年)9月11日 - 第五高等中学校医学部医学科・薬学科が小島から西彼杵郡浦上山里村(現在地)に移転。小島に分教室[ 注釈 5] と病院は残る。
1901年 (明治34年)
3月31日 - 第五高等中学校の医学部が独立し、官立長崎医学専門学校 となる。
12月 - 浦上山里村に本部・薬局・診療所が完成。
1902年 (明治35年)4月 - 浦上山里村(現在地)に移転し、長崎県立長崎病院開院式を挙行。
大正
大正期の長崎医学専門学校附属医院
1922年 (大正 11年) 4月1日 - 県立長崎病院の敷地・建物の一切を国へ移管し、 官立長崎医学専門学校附属医院 と改称。
1923年 (大正12年)3月31日 - 長崎医学専門学校の廃止、長崎医科大学新設に伴い、長崎医科大学附属医院 と改称。
昭和
被爆直後の長崎医科大学附属病院
1945年 (昭和 20年)
8月9日 - 長崎市へ原爆が投下 され、医科大学・附属病院ともに甚大な被害を受けたため、浦上での教育・診療・治療が困難となる。
8月被爆直後
9月 - 長崎経済専門学校(現 長崎大学経済学部)校舎内に大学本部と附属医院事務部が移転。
9月27日 - 教官・学生の中の数十名が元大村海軍病院に集まり、入院患者の診療に従事。
10月6日 - 新興善救護病院が長崎医科大学附属病院となり、調来助教授が院長に就任。
11月上旬 - 長崎医科大学本部が長崎経済専門学校から新興善国民学校に移転。
1946年 (昭和21年)
2月9日 - 新興善国民学校(児童数495名)が校舎を長崎医科大学附属病院に引き渡し、晧台寺に移転する。
4月 - 長崎医科大学本部・附属医院・附属医学専門部が諫早市 永昌町の元佐世保海軍病院諫早分院に移転。
4月14日 - GHQ 軍政官サムサ大佐が古屋野学長に対し、元大村海軍病院を厚生省 に移管するよう伝達し、15日間のうちに諫早市に移るよう命令。
5月 - 元大村海軍病院での講義・診療を中止。
新興善国民学校を附属第一医院 、元佐世保海軍病院諫早分院を附属第二医院 として診療開始。
1949年 (昭和24年)
1950年 (昭和25年)
5月 - 長崎大学薬学部[ 注釈 7] が諫早から長崎に移転。最初は経済学部校舎内に移転し、同年12月に昭和町校舎(現 附属小学校 )に移転。
10月2日
長崎大学医学部附属病院事務部および臨床各数室(附属病院各科)が10月6日までの4日間に、新興善小学校校舎から6年ぶりに浦上の旧構内(現在地)に復帰。
新興善小学校には附属外来診療所を残すこととなった。
10月20日 - 長崎大学本部が諫早から新興善小学校の附属外来診療所の一部に移転。
1951年 (昭和26年)
第二医院を医学部附属病院諫早分院と改称。
12月25日 - 新興善小学校(興善町15番地)にあった長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰。
1955年 (昭和30年)10月24日 - 長崎大学本部が興善町から大橋町(現 文教キャンパス)に移転。
1958年 (昭和33年)
3月 - 諫早分院を閉鎖
6月2日 - 興善町の外来診療所が本館(浦上)に復帰。(本館の外来診療棟が完成したため)
1961年 (昭和36年)12月3日 - 長崎大学医学部附属病院創立100周年記念式典を挙行。
1980年 (昭和55年)4月 - 長崎大学に歯学部が新設。
1982年 (昭和57年)4月17日 - 医学部附属病院敷地内に長崎大学歯学部附属病院 を設置。[ 注釈 8] 。
平成
診察科
呼吸器内科 、血液内科 、消化器内科 、麻酔科 、呼吸器外科 、消化器外科 、神経内科 、膠原病・リウマチ科 、内分泌・代謝内科 、皮膚科 、泌尿器科 、腎臓内科 、循環器内科 、心臓血管外科 、整形外科 、形成外科 、乳腺・内分泌外科、眼科 、脳神経外科 、耳鼻咽喉科 、放射線科 、小児科 、小児外科 、産科婦人科 、精神神経科 、救急科 、矯正歯科 、予防歯科 、小児歯科 、歯科放射線科 、歯科麻酔科 、口腔外科 など
関連施設など
医療機関の指定等
不祥事
職員自殺
2015年3月、長崎地方裁判所 は2009年4月に過労 とパワハラ によって自殺 した職員の労働災害給付金を遺族に支払うよう、労働基準監督署 に命じた[ 4] 。
交通アクセス
脚注
注釈
^ 14名という説もある [要出典 ] 。
^ もともと陰暦だが、現在の陽暦として9月26日を開校記念日としている [要出典 ] 。
^ 「こしま」と読む
^ 読み方は「ばんち」。「蛮地」とも書く。広義では「未開の土地」という意味であるが、ここでは「征台(台湾を征する)」とあるため、「台湾 」を表す [要出典 ] 。
^ 浦上山里村にすべて移転が完了した後の旧分教室校舎には、佐古尋常高等小学校(現 長崎市立佐古小学校)が開校した [要出典 ] 。
^ (後の長崎市立新興善小学校、現在は統廃合で廃止され、跡地に長崎市立図書館 がある [要出典 ] 。
^ 長崎大学誕生前は長崎医科大学の附属機関であった [要出典 ] 。
^ 九州の国立大学歯学部附属病院としては、九州大学 、鹿児島大学 に次いで3番目の開院 [要出典 ] 。
出典
広報資料・プレスリリースなど一次資料
関連項目
外部リンク
前身 附属学校
廃止校 附置研究所 附属病院 建造物 関係者
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