錦洋 与三郎(にしきなだ よさぶろう、1900年7月5日 - 1960年3月1日[1])は、鹿児島県姶良郡福山町(現霧島市)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は豊平 才蔵。最高位は関脇(関西角力協会では大関をつとめた)だった。現役時代の体格は176cm、111kg。得意技は押し、寄り、掬い投げ。
来歴
井筒部屋に入門し、1917年5月場所に初土俵をふむ。1923年5月、新十両、1925年1月に新入幕を果たす。出足早く、攻めの相撲で鳴らした。1925年5月場所には、前頭12枚目で10勝1敗の好成績を挙げたが、優勝は同じ平幕でも上位の大蛇山酉之助に奪われた。そこから上昇気流に乗り、1927年10月には新小結、1928年には関脇に昇進した。三役を長くつとめたので、金星こそ常ノ花寛市からの1個にとどまったが、大関大ノ里萬助には対戦成績でも勝ち越すなど、出羽海一門を相手によく健闘した。
1932年の春秋園事件で天竜三郎らに呼応して脱退、天竜らが設立した関西角力協会の中心として活躍し、1934年には同協会主催の1月場所トーナメントで優勝を果たした[2]。そして、1937年の解散まで土俵をつとめた。なお実弟も早稲田大学相撲部で活躍した。
主な成績
日本大相撲協会
- 幕内在位:25場所(うち関脇7場所、小結1場所、脱退の1932年1月も含む)
- 幕内成績:137勝101敗3分預23休
- 金星:1個(常ノ花)
場所別成績
錦洋 与三郎
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春場所 |
三月場所 |
夏場所 |
秋場所 |
1917年 (大正6年) |
x |
x |
(前相撲) |
x |
1918年 (大正7年) |
新序 1–2 |
x |
東序ノ口18枚目 4–1 |
x |
1919年 (大正8年) |
西序二段33枚目 4–1 |
x |
西三段目48枚目 2–3 |
x |
1920年 (大正9年) |
西序二段2枚目 4–1 |
x |
西三段目16枚目 3–2 |
x |
1921年 (大正10年) |
西三段目5枚目 4–1 |
x |
東幕下27枚目 3–2 |
x |
1922年 (大正11年) |
東幕下16枚目 2–2 1預 |
x |
東幕下5枚目 3–2 |
x |
1923年 (大正12年) |
東幕下筆頭 優勝 8–2 |
x |
東十両8枚目 3–3 |
x |
1924年 (大正13年) |
西十両8枚目 3–2 |
x |
東十両4枚目 優勝 7–0 |
x |
1925年 (大正14年) |
西前頭11枚目 6–3 2預 |
x |
東前頭4枚目 6–5 |
x |
1926年 (大正15年) |
東前頭3枚目 0–0–11 |
x |
西前頭12枚目 10–1 |
x |
1927年 (昭和2年) |
東前頭5枚目 6–4–1 ★ |
東前頭5枚目 7–4 |
東前頭筆頭 5–6 |
西小結 7–4 |
1928年 (昭和3年) |
西前頭筆頭 8–3 |
東関脇 6–5 |
東前頭筆頭 7–4 |
東前頭筆頭 6–5 |
1929年 (昭和4年) |
西関脇 8–3 |
西関脇 6–5 |
西関脇 5–6 |
西関脇 7–4 |
1930年 (昭和5年) |
西関脇 5–6 |
西関脇 0–5–6 |
西前頭2枚目 4–2–5 |
西前頭2枚目 5–6 |
1931年 (昭和6年) |
東前頭筆頭 6–5 |
東前頭筆頭 6–4 1痛分 |
西前頭筆頭 7–4 |
西前頭筆頭 4–7 |
1932年 (昭和7年) |
東前頭5枚目 – 脱退 |
x |
x |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 1927年1月場所の1休は相手力士の休場によるもの
関西角力協会
関連項目
出典
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 57頁
- ^ a b 関西相撲の優勝者 古今大角力最高成績者鑑 2015年6月10日閲覧。