金 相福(キム・サンボク、김상복、1923年11月9日[1] - 不詳)は大韓民国の軍人。最終階級は陸軍中将。第3共和国体制で第17代参謀次長(朝鮮語版)、26代内務部次官、2代大統領政務首席秘書官(朝鮮語版)を務めた。カトリック教徒で洗礼名はヨセフ[2]。
経歴
平安南道安州出身。1944年に奉天医科大学(中国語版)(現・中国医科大学)卒業後、満洲国軍司薬少尉として終戦を迎える[3]
。帰国後、1946年3月23日付で軍事英語学校第1期卒業、任参尉(軍番10076番)。警備隊第1連隊医務部(部長・朴東均正尉)補佐官として勤務を開始する[4]。
その後転科し、朝鮮戦争勃発時は陸軍本部調達監であったが、翌年前線に転じ[注釈 1]、1952年より第2砲兵団長[3][注釈 2]を経て、砲兵戦力の強化人員として「16人の砲兵将星」の一人に選抜され[注釈 3]、光州砲兵学校で3か月の基礎訓練を受けたのち米国に留学[7][8]、帰国後は第1軍団砲兵司令官(朝鮮語版)。
停戦後は第20師団長、第3師団長を歴任。国防部管理局長であった際、5・16軍事クーデターで軍を追われ、石油公社社長に就任したが、1か月で呼び戻されて米参謀大学に留学、1963年に第2訓練所所長、第1軍団長、第2軍団長を経て参謀次長に就任[5]。しかし数週間足らずで内務部次官、さらに大統領政務首席秘書官(朝鮮語版)に電撃抜擢される。青瓦台襲撃未遂事件を受け、郷土防衛・対スパイ作戦に長けた人材と見なされた事が背景とされる[3]。
1971年より韓国電力公社社長、全経連理事、新東亜火災保険(現・ハンファ損害保険(朝鮮語版)
)会長を務めた。
年譜
- 1946年:軍事英語学校第1期卒業、任少尉。
- 1950年5月1日:陸軍本部調達監
- 1951年12月:第8師団附?
- 1952年
- 1953年5月11日:第1軍団砲兵司令官(~1953年9月25日)[9]
- 1954年10月1日:陸軍本部人事局長(~1955年7月15日)
- 1955年:第20師団長
- 1956年:国防大学院入学(~1957年)
- 1957年8月:第3師団長
- 1959年6月2日:軍事発展局長
- 時期不明:国防部管理局長(~1961)
- 1961年
- 1963年
- 1964年8月:第1軍団長
- 1965年2月26日:第2軍団長
- 1966年7月18日:国防部管理次官補[13]
- 1968年
- 2月15日:参謀次長
- 2月26日:予備役編入、内務部次官
- 1969年4月12日:大統領府政務首席秘書官(~1971年7月9日)
- 1971年7月22日:韓国電力社長
- 1973年:新東亜火災保険会長
注釈
- ^ 中央日報報道では第8師団の所属として854高地の戦闘に参加したとしている[5]が、戦史では参加は確認できない[6]。
- ^ 現行の第2砲兵団は1983年設立。第1軍団隷下の第2野戦砲兵団(1952年3月25日創設、1953年7月27日解体)もしくは第2師団砲兵団の事か
- ^ 朴正煕大領(第2軍団砲兵団長
、大統領)、朴璟遠(第11砲兵団長、内務長官)・李奇建(第9砲兵団長、准将)、李明載(이명제、少将)、 宋錫夏(少将)、李昌禎(이창정、少将)、金永周(김영주、准将)、崔慶萬(中将)、朴炫洙(박현수、少将)、金東洙(第15砲兵団長、准将)、李春景(이춘경、第20砲兵団長、准将)、金相福(中将)、姜泰敏大領(第9師団砲兵団長、少将)、金東斌(第7師団砲兵団長、中将)、李喜権(이희권、第12師団砲兵団長、少将)、李白雨(이백우、第12砲兵団長、少将)の16人。
脚注
参考文献