金庾信墓
金庾信墓(きんゆしんぼ、ハングル: 김유신묘〈キムユシンミョ〉)は、韓国、慶尚北道慶州市仙桃洞にある玉女峯(ハングル: 옥녀봉〈オクニョボン〉)の[2]東丘陵の中腹に位置する統一新羅の古墳であり、新羅の将軍で宰相であった金庾信の墓と伝えられる[3]。1963年、金庾信墓は大韓民国指定史跡第21号に指定され、2011年7月28日より慶州金庾信墓(ハングル: 경주 김유신묘)に指定名称が変更された[4]。 概要玉女峯の東峰となる松花山(ハングル: 송화산〈ソンファサン〉)の[5]の尾根上斜面に造営された墓は、新羅の陵のなかでもとりわけ広い敷地面積を占めている。墓は南方を向いた[3]円形の封土墳で[6]、直径15.8メートル、高さ5.32メートルである。円形墳の基辺外囲には1.2メートルの[1]護石(ハングル: 호석〈腰石[6]〉)が備えられ、十二支神像が彫刻される[7][8]。その護石の間には1つずつ束石を据える[9]。円墳の外周は石製欄干(玉垣[9])で囲まれ[6]、38本の縦柱と上下2本の貫があるが、大半は新たな石材により修復されている[9]。 十二支神像円墳の周囲に巡らされた護石の十二支神像(獣首人身像)の浮き彫りは[10]、8世紀後半に作られたものとされ[11]、統一新羅時代に編成された独特な墳墓装飾として[10]保存状態が良く、優れたものと評価される[12]。獣首人身十二支像は、隋の7世紀初頭(大業年間、605-618年)の副葬品より認められる。また唐の中期(8世紀中頃[13])以降に盛んになる仏教的な十二支像に対し[14]、新羅の王陵を装飾する立像は神将像(十二神将[15])に類似する要素が見られ、これらは新羅王権の護国思想と習合したものと捉えられる[16]。北の子(ネズミ)神に始まる十二支神像は平服の姿で、刀剣・槍・二叉・槌・鉢・宝珠などを手に持つ[17]。 さらに円墳の周辺からは、蝋石(ろうせき)に彫られた[18]武装姿の卯(ウサギ)・午(ウマ)・亥(イノシシ)の十二支神将像が発掘されている[19]。
歴史金庾信(真平王17年〈595年〉-文武王13年〈673年〉)は、7世紀、三国統一に貢献したことで名高い新羅の武将である[10]。百済、高句麗を倒し、文武王8年(668年)より最高官位の「太大角干」となる[20]。そして文武王13年(673年)に死去した後、835年、興徳王(在位826-836年)の時代に「興武大王」と追尊された[21]。 今日、墳墓前面の左・右に「新羅太大角干金庾信墓」ならびに「開国公純忠壮烈興武王陵」と刻まれた碑石があり[21]、参道の入口には「興武門」が備えられる。また、金角干墓(角干墓[6])とも称されたほか[3][22]、一般に、金庾信将軍(興武大王)墓などと標記される。しかしこの陵墓は、実際には金庾信の墓でないとする説も提起されている[3][23]。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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