野津家 (侯爵家)
野津家(のづけ)は、藤原氏と称する武家・士族・華族だった日本の家。近世には薩摩藩士の家で、近代に野津鎮雄陸軍中将、野津道貫元帥の兄弟を出し、道貫の勲功により華族の侯爵家に列せられた[1]。 歴史野津氏は藤原氏と称し[2]、もともとは豊後国の戦国大名大友氏に仕えていたが、寛永年間中に薩摩藩士となった[1]。 幕末から明治初期の当主野津鎮雄は、幕末に国事に奔走し、戊辰戦争に出征して戦功を多くあげた[1]。明治4年(1871年)に陸軍大佐兼兵部権大丞に任じられ、明治11年(1878年)に中将に累進。佐賀の乱では征討総督参謀長として鎮圧に軍功をあげ、西南戦争でも征討軍第一旅団司令長官として軍功を挙げた[1]。しかし鎮雄は、明治13年(1880年)7月22日に没した[1]。 その弟である道貫が兄の養子として家督を継ぐ[1]。道貫も維新の際に兄とともに国事に尽くした。維新後に陸軍に入隊。西南戦争では第二旅団参謀長として出征し、明治11年(1878年)に少将に昇進[1]。ついで東京鎮台司令官となり[1]、明治17年(1884年)7月7日に戊辰戦争と西南戦争の功により華族の子爵に列せられた[3]。 日清戦争には第五師団長として出征し[1]、その戦功により明治28年(1895年)8月に伯爵に陞爵[3]。また同年に大将に昇進。その後も近衛師団長、東部都督、教育総監等を歴任[1]。日露戦争では第4軍司令官として武勲を建て、明治39年(1906年)に元帥府に列せられ[1]、明治40年9月に日露戦争の功で侯爵に陞爵した[3]。 道貫が明治41年10月18日に没した後、その長男鎮之助が11月10日に家督と爵位を相続。鎮之助も陸軍砲兵少佐まで昇進した陸軍軍人だった。彼の代の昭和前期に野津侯爵家の住居は東京市渋谷区代々木初台町にあった[4] 彼が昭和17年(1942年)11月14日に没した後、その長男高光が家督と爵位を相続。彼は海軍主計少尉まで昇進した海軍軍人で、平成前期には東濱植林株式会社の監査役だった[1]。平成前期の野津家の住居は東京都大田区田園調布にあった[1]。 系図
脚注出典参考文献
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