郡津
郡津(こうづ[3]、こおづ[6])は、大阪府交野市の地名。1丁目から5丁目まである。郵便番号は576-0053。 地理交野市の北部に位置する[7]。北から東にかけて枚方市・幾野、南に私部、西に京阪交野線を挟んで梅が枝・松塚と隣接している[7]。 河川歴史長禄2年(1458年)9月、『経覚私要抄』に「コウツト云里ヲハ悉被焼払了」とあり、郡津が焼き払われている[6]。石清水八幡宮の神人が下知に従わず新関を設けるなどしたため、幕府の命で神人の地が焼き払われており、郡津も同様に焼かれたとみられる[6]。 天正11年(1583年)8月の豊臣秀吉判物には「河州交野郡郡戸村五百三十三石六斗」と記されており、片桐貞隆が郡津などに知行を与えられていることが分かる[6][10]。 江戸時代の村名は郡津村といった[6]。なお、村名の表記について、文化元年(1804年)に大坂町奉行の命で「郡津」に改めるまでは郡門村と書いたともされる[11]。 郡津村は、寛永年間(1624–1644年)以降、大和小泉藩片桐氏と山城淀藩永井氏の相給で、正保年間(1644–1648年)の村高783石のうち、550石が小泉藩領で、233石が淀藩領だった[6]。小泉藩領は延宝2年(1674年)より旗本下条氏領(下条氏は寛保3年〈1743年〉に片桐に改姓)となっており、淀藩領は万治元年(1658年)に旗本永井氏領、貞享4年(1687年)に幕府領、元禄7年(1694年)に相模小田原藩の大久保氏領となっている[6]。 郡津の集落を南北に東高野街道が通り[6]、貝原益軒の『南遊紀行』に「香津の茶屋」と出てくる[6][12]。また、『五畿内志』には「郡門」という表記が見られる[6]。 1881年(明治14年)、郡津村は大阪府の所属となり、1889年(明治22年)、交野村の大字郡津となった[6]。 地名の由来古代交野郡の郡衙の門前の村だったことに由来するという[6][11]。当初は「郡門村」と書いて「こうど村」と読んだとされ、その後「こうづ」に変化した後、表記も「郡津」に改められたとされる[11]。 沿革
世帯数と人口2024年(令和6年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
学区市立の小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[20]。
郡津1丁目1–3番、37–43番は、2025年(令和7年)4月より郡津小学校区となる[20]。 施設
交通鉄道バス
道路脚注
参考文献 |