還熊八幡神社
![]() 還熊八幡神社(かえりぐまはちまんじんじゃ)は、愛媛県松山市にある神社である。旧社格は村社。神紋は左三つ巴。松山八社八幡の七番社(帰熊八幡)。 祭神由緒貞観年間(859~877年)に京都の石清水八幡宮より勧請し河野氏の崇敬を受けたという。 天正18年(1590年)、胸肩宮(宗像三女神)、矢取宮(長寛年間に源為朝が弓の奥義を悟った際、五十猛命を祀った神社)、饒宮(饒速日命を祀る神社)を合祀(その他、京都の祇園社、天満宮も合祀してある)。 慶長5年(1600年)、松前城主加藤嘉明が関ヶ原の戦いに出陣した留守に、毛利勢が河野の遺臣らと共に三津浜に攻め入り当神社に立てこもったため、嘉明の家臣、佃十成がこれを撃滅(三津浜夜襲)、その時の兵火によって神殿を焼失、旧記、宝物等を失ったという。なお、その当時は今の所より北の山上篠原に鎮座していたという。 翌慶長6年、加藤嘉明が松山城築城にあたり、社殿を現在の地に移して再建し、松山八社八幡の一社として崇敬し、江戸参勤の際には幣帛を奉り道中安全を祈願したと伝えられる。 年中行事
10月6日の例大祭の翌7日の神幸祭では、山越の南北2体によって喧嘩神輿(鉢合わせ)が行われる。 10月7日の神幸祭は宮出し7時、宮出し後7時30分頃から Aコープ山越(駐車場)、宮入り前の21時頃から神社境内で喧嘩神輿(鉢合わせ)が行われる。 平成23年(2011年)、北山越神輿新調、同年に北山越地区と御幸地区が分離。 平成24年(2012年)、御幸地区の寺町、町方の地区が分離し、寺町が旧北山越神輿を継承。町方が六角神輿を新調。なお同年の南山越は喧嘩神輿(鉢合わせ)辞退。 平成25年(2013年)、南山越、北山越、御幸(寺町)の3体によって喧嘩神輿(鉢合わせ)が行われるようになる。 北山越地区では、伊勢音頭、起こし太鼓、獅子舞、狩人舞、おやじ(おじぃとおばぁが農作業を中睦まじく表現する舞)等の 伝統芸能が多数残っており、10月7日の神幸祭での巡町時に要所(御旅所等)で行われている。 平成26年(2014年)、御幸(寺町)は喧嘩神輿(鉢合わせ)辞退。 平成27年(2015年)、御幸(寺町)は喧嘩神輿(鉢合わせ)辞退。 境内社
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