遠藤幸吉
遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1926年3月4日 - )は、山形県東村山郡金井村出身の、柔道家(四段)、プロレスラーである。力道山と共に日本プロレスを創設した人物。 来歴憧れだった史上最強の柔道家である木村政彦の側にいたいと思い、国際柔道協会(プロ柔道)に参戦したがこの団体は崩壊する。1951年、来日したボビー・ブランズらとともにプロレスのトレーニングを積む。その輪の中に力道山がいた。同年11月14日、横浜市でボビー・ブランズとエキシビション・マッチを行っていて、これが遠藤のデビュー戦とされる。 1952年、「コウ東郷」を名乗り、空手家の大山倍達(マス東郷)とともにアメリカ遠征。現地でグレート東郷(カズ東郷)と合流し、「東郷3兄弟」として各地を転戦。この時期の遠藤が劇画『空手バカ一代』、『KIMURA』などに登場するが、自伝や日本プロレス年表では大山倍達・グレート東郷の名を意図的に記載していない。 1953年に力道山が創設した日本プロレスに合流。披露パーティーでは力道山とエキシビション・マッチを行っている。 その後は力道山のタッグ・パートナーとして活躍し、1954年8月には太平洋タッグ王座を獲得した。1956年にはシャープ兄弟を破り、世界タッグ選手権を獲得している。 「私は力道山の弟子じゃない。リキと一緒にプロレスを創ったんだ」と複数の媒体で述べている。 力道山が世を去った後の1963年からは、吉村道明・豊登・芳の里とともに日本プロレスの経営を担い、遠藤は経理を担当。現役生活の方は1966年に終えている。芳の里と並んで腐敗した経営陣の一角として攻撃されたこともあり、営業部長を務めていた後輩の吉原功とは見解の相違もあって確執が生じていた。このことにより吉原が日本プロレスを退社し、国際プロレスを設立したきっかけになったことでも知られている。 日本プロレス崩壊後はアントニオ猪木率いる新日本プロレスのプロモーターとして活動したほか、NET・テレビ朝日の日本プロレス・新日本プロレスの中継に於いては1970年代中期まで桜井康雄(東京スポーツ記者)と共に解説者を務めていた(プロレスラー出身の解説者第1号[1])。 エピソード
得意技
獲得タイトル
モデルになった作品
脚注
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