遠山友寿
遠山 友寿(とおやま ともひさ)は、美濃苗木藩の第11代藩主。 略歴天明6年11月25日(1787年1月14日)第9代藩主・遠山友清の長男の遠山友福の長男として江戸で生まれたが、母の直は、友寿を出産した翌日に没した[2]。 天明7年(1787年)4月晦日、第10代藩主・友随の養嗣子となっていた実父の友福が早世した。 そのため、天明8年(1788年)4月22日、祖父の友随の嫡孫となった。 寛政4年(1792年)12月21日、祖父の友随の隠居により、7歳で家督を相続したが、幼少のために肥後人吉藩主の相良長寛の後見を受けた。 寛政12年(1800年)、4月9日に江戸を出発し、4月17日に初めて苗木城へ入城した。 享和元年(1801年)、鍛冶橋御門番・駿府加番を勤めて、12月16日に、従五位下・刑部少輔に叙任された。 藩士に重役心得を申し渡し、指導者の心構えと指導の重要性を強調した。 文化4年(1807年)、乗馬仕立之主意を出し、先代藩主の友随の諸士心得の徹底を図った。 文化11年(1814年)、美濃守に改めた。 同年3月、藩財政の窮乏に近江国信楽代官取扱いの宿場助成貸付金3千両の借用を、領内33ヶ村を引当として申込んで800両の融通を受けるとともに倹約令を繰返し、借上や貸下げ、さらには家臣の統率強化にも務めた。 文政2年9月17日(1819年)、継室の於由賀が、後に苗木藩主となった友禄を生んだ。 文政13年7月(1830年)、衣類の倹約既定の申請書が側向の者に出された。 天保3年(1832年)12月、倹約令で家中借上米が、翌年から3年間実施されたが、藩財政は好転の兆が見られず、借米期間は延長に延長を重ねた。 天保9年(1838年)11月21日、53歳で没し、三男の友禄が苗木藩主を嗣いだ。 参考文献
脚注 |