辺見十郎太
辺見 十郎太(へんみ じゅうろうた)は、幕末から明治時代初期にかけての薩摩藩士、陸軍軍人。名は昌邦。 生涯嘉永2年11月7日(1849年12月21日)、薩摩国に生まれる。戊辰戦争のとき、薩摩藩二番小隊長として東北戦争で活躍。維新後は鹿児島常備隊小隊長となり、明治4年(1871年)に近衛陸軍大尉となる。 明治6年(1873年)に皇居が焼けたとき、新宿の妓楼で遊んでいて救援に間に合わず、同僚から糾問され、自害を迫られたが、西郷に助けられ、以後心を入れ替えたという。明治六年政変で西郷隆盛が辞職して鹿児島へ下野すると、自分も辞職して西郷に従った。私学校でも力を尽くし、宮之城郷の区長も務めた。 明治10年(1877年)、西南戦争。辺見は薩摩三番大隊一番小隊長として熊本城攻撃に活躍し、その後雷撃隊大隊長となる。大口、踊、末吉と転戦、可愛岳突破では先陣を切った。勇敢な薩軍の中でも特に抜群の武勇を誇り、仲間からの信頼も厚く、弾雨の中を先頭に立って突撃する辺見を見て皆勇気づけられたという。また気性が激しく、退却する味方は斬り殺し部下にその生き胆を食べさせ「お前らもこうなるぞ」と戒めたと言われる。(『明治の群像(3)』(谷川健一/三一書房/1968)) 対し、明治13年、市ヶ谷監獄において計5回行われた尋問の記録「西南之役懲役人質問」(鹿児島県資料、「西南戦争」(鹿児島県維新史料編さん所編・全4巻)に収録)では「辺見は兵を指揮する際、退く者を斬ったというのは本当か」との問いに、野村忍介(奇兵隊隊長)、鮫島敬助(奇兵隊小隊長)、大野義行(狙撃隊中隊長)は「斬ったことは無い。棍棒で殴っていた」と答えている。この証言を裏付けるものとして西南記伝にも、「退く者は斬る!」とすごむ部下に対し辺見が「兵をみだりに斬るな」と耳打ちした、という逸話が残っている。 同年9月24日、西南戦争最後の戦場となった鹿児島城山の岩崎谷で戦死。西郷の死後に別府晋介と刺し違えて死んだとも、政府軍に突撃し戦死したとも伝えられる。享年29(満27歳没)。 家族
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