辰巳の辻占辰巳の辻占(たつみのつじうら)は、古典落語の演目のひとつ。同演題では東京落語で広く演じられる。この項では、同演題のもととなった上方落語の辻占茶屋(つじうらぢゃや)についても記述する。 概要『辻占茶屋』の原話は、上方の初代露の五郎兵衛が1705年(宝永2年)に出版した笑話本『露休置土産』の一編「心中の大筈者」。下座からの歌付きのハメモノ(=BGM)が噺運びに重要な意味を持ち、口演の際は演者と囃子方とで呼吸を合わせることが必要となる。主な演者に5代目桂文枝らが知られる。 『辰巳の辻占』は、上方の『辻占茶屋』を明治初期に東京落語へ移植したもの。現在地名となっている「辰巳」は、同演目では深川の岡場所(あるいは洲崎の遊廓)の隠語として用いられている(深川は江戸の町中から辰巳=南東の方角にあたる)。主な演者に4代目橘家圓喬、3代目桂三木助、10代目金原亭馬生らが知られる。 あらすじ男(『辻占茶屋』では鍛冶屋の「源やん」、『辰巳の辻占』では商家の若旦那・伊之助)が、遊女(『辻占茶屋』では難波新地のお茶屋・神崎屋の娼妓・梅乃。『辰巳の辻占』では岡場所の飯盛女・お玉もしくはお静、あるいは洲崎遊廓の紅梅花魁)を身請けしようと思い立ち、叔父に相談するが、叔父は逆に男の女遊びをとがめ、「恋というものは人を盲目にする。俺にも似たような経験があるが、堅い約束を果たしたつもりになっていても、この手の女にはたいてい間夫(まぶ)がいるものだ」と男を諭す。男は聞く耳を持たず、貯めて(あるいは無尽の抽選で当てて)預けた大金を引き出すよう、叔父に食い下がる。叔父は「そんなに女に惚れているなら、ひとつ賭けをしてみろ。思いつめた様子で店へ行き、たずねられたら女の前で理由をでっちあげて(※バリエーションは後述)、『死ぬことにした。線香の1本でも立ててくれ』と切り出すのだ。女が『そうですか』と言うなら、見込みがないからあきらめろ。『わたしも一緒に死にます』と言ったら店を出て、人気のない水辺に連れて行って心中をはかるふりをしろ。寸前でやめて、俺の所に連れて来い。祝言を上げてやる」と提案し、男を送り出す。
夜ふけに男は店に着き、女将に目当ての遊女を呼ばせ、座敷で待つ。男は暇つぶしに、座敷に残された辻占菓子(=煎餅や饅頭などの中に、恋占いのおみくじを入れたサービス品)の捨てられた中身を拾い上げたり、未開封のものを食べたりして、おみくじを次々と読む。それぞれあまり幸福を感じさせない文面が書かれており、男は大きく落胆する。
そこへ遊女が現れ、「どうしたの?」と男の様子をうかがう。男は、叔父に吹き込まれた嘘を話し、「死ぬことにした。今晩でお別れだ。線香の1本でも立ててくれ」と告げる。遊女は同情した様子で、「あなたが死ぬというのなら、いっそのこと私も一緒に」と答えるが、男が「では、これからふたりで死のう」と言うと、遊女は「今日は少し都合が……」と渋る。遊女に惚れられていない、ということを認めたくない男は焦り、「早く死のう、呑んでないで先に死にに行こう」と遊女をせかし、女将に「夜店に行く」と言って、提灯を持たずに店を飛び出す。遊女はしぶしぶ男のあとをついていく。 ふたりは人気のない水辺(『辻占茶屋』では四ツ橋。『辰巳の辻占』では吾妻橋もしくは洲崎の海岸)にやって来る。夜の闇で姿が見えず、離れ離れのまま、ふたりは声だけでお互いの存在を確かめる。男は遊女に、「まずお前が『南無阿弥陀仏』と言え。それを合図に飛び込もう」と告げる。遊女は「南無阿弥陀仏」と叫び、ひそかに、手近にあった大きな石を水面に投げ込む。もともと死ぬ気のない男は、水の音を聞いて、遊女が本当に飛び込んでしまったと思い込み、大いにあわて、思案の果てに、「俺があの世へ行くまで、この石で我慢をしてくれ。南無阿弥陀仏」と言って、大きな石を水面に投げ込む。遊女は水の音を聞いて、「あの馬鹿、本当に飛び込んでしまった」と驚きあきれ、その場を離れる。 男が遊女の死を悔やみながら帰路につくと、向かいから当の遊女が何食わぬ顔で歩いてくる。男が「あっ、お前は」とその姿を認めると、遊女は苦笑しながら「お久しぶり」と返答する。「何がお久しぶりだ」 「だってあなたとは、娑婆で会って以来じゃないか」(「娑婆」は、現世を表す仏教用語であると同時に、「遊里の外」を示す俗語である) バリエーション
エピソード脚注
関連項目
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