豊鍬入姫命豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと[1]、生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「豊鍬入姫命」「豊耜入姫命」、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記される。 第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。 系譜(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載) 『日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女である。同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいる[2]。 なお『日本書紀』では、「一云」として、母を大海宿禰の娘の八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする異伝を載せる[2]。 記録『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという[2]。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。 同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなる(伊勢神宮起源譚)[2]。 『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されている。 考証豊鍬入姫命と倭姫命とは、ともに伊勢神宮の斎宮の起源に求められる(ただし、制度上の最初の斎宮は天武皇女の大来皇女)[3]。また上記伝承から、伊勢神宮の神格成立の要素として、豊鍬入姫命が出自とする紀国造の氏神の日前神や、三輪山(一説に笠縫邑祭祀と関連)での日神信仰の存在が指摘される[1]。 そのほか名前の「豊(とよ)」から、豊鍬入姫命を邪馬台国における卑弥呼宗女の台与(壹與/臺與)に比定する説がある[2]。 脚注参考文献
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