豊竹駒太夫豊竹 駒太夫(とよたけ こまたゆう)は、義太夫節の太夫。同じ「駒太夫」でも常磐津には「常磐津駒太夫」の名跡がある。 初代初代竹本大和太夫に憧れ師事したが1733年に死去し豊竹新太夫(後の豊竹備前掾)に師事、その後新太夫状況の折に初代豊竹若太夫(後のと豊竹備前小掾)に譲り弟子になる。1735年に豊竹座に初出座。その後江戸の肥前座でも活躍。美声と裏声は「駒太夫風」と言われ今日にも伝わる。後に実子の生駒太夫(2代目駒太夫)に活躍を機に引退した。 本名または通称を「播磨屋弥三郎」。
2代目(生没年不詳) 初代の子で生駒太夫。1766年の北堀江の市之側に初出座。1776年に2代目駒太夫を襲名。江戸、大坂で活躍。父同様に美声の持ち主だった。播州明石で興行中に病になり1797年ごろに死去。 通称を「藤右衛門」。 3代目大坂の人物。初代豊竹巴太夫の門下。初名を豊竹綾太夫。1809年が初出座。1829年に3代目駒太夫を襲名。後に文駒翁を名乗り隠居する。 通称を「勇兵衛」。 4代目初代豊竹巴太夫の門下。豊竹菊太夫、義花太夫、浪花太夫、小野太夫経て1843年に4代目駒太夫を襲名。 通称を「新兵衛」。 5代目(生年不詳 - 明治20年(1887年)7月11日)本名は岡本弥太郎。俳名は三国。 素人浄瑠璃出身。4代目豊竹巴太夫の門下。三国という名の素人浄瑠璃出身。1849年に豊竹富司太夫の名で初出座。1865年に5代目駒太夫を襲名。 6代目(嘉永元年(1848年) - 大正2年(1913年)7月11日)本名は川崎宗太郎。 5代目駒太夫の門下。豊竹広見太夫から3代目豊竹富太夫を経て1892年に6代目駒太夫を襲名。晩年は浅草に住んだ。 7代目(明治15年(1882年)2月20日 - 昭和16年(1941年)3月31日)本名は辻田万蔵。 幼少の時に病気で失明。富崎春昇に地唄を習うようになる。1887年に3代目富太夫(後の5代目駒太夫)に入門し豊竹小富太夫を名乗る。上京後、豊澤松太郎や初代豊竹呂太夫の陶酔を受ける。1989年に2代目竹本津太夫の預かり弟子で文楽座で初舞台。1902年に4代目豊竹富太夫、1914年に7代目駒太夫を襲名。「仮名手本忠臣蔵」の身売や「恋娘昔八丈」の鈴ヶ森、「国性爺合戦」の楼門などを得意とした。
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