豊川町 (伊勢市)
豊川町(とよかわちょう)は、三重県伊勢市の町名[3]。郵便番号は516-0042[WEB 3]。2020年(令和2年)4月30日現在の人口は36世帯80人[WEB 2]。 地域内はほぼ豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の宮域であるが、南東部には住宅が点在する[4]。 地理伊勢市北部、伊勢の中心市街地である山田の中央に位置する[5]。宮川と勢田川に挟まれた高倉山東麓の沖積平野に位置する[5]。高倉山には音無山(おとなしやま)、賀利佐我山(かりさがやま)、佐貴山(さきやま)、高佐山(たかさのやま)、日鷲山(ひわしやま)、郭公不為声山(ほおとぎすこえをせぬやま)、鶏不驚山など多くの別称がある[6]。明治と昭和の民家撤収により、町域の大半が伊勢神宮外宮の宮域となっている[3]。宮域は伊勢市街地にありながら、森閑としており[7]、宮域の勾玉池(まがたまいけ)は伊勢市民のオアシスとなっている[8]。
北は八日市場町・一志町・本町、東は岡本一丁目・岡本三丁目、南は藤里町・旭町、西は浦口町・常磐町と接する。 小字『角川日本地名大辞典』による[9]。
歴史外宮の鎮座から街の成立まで豊川町にある伊勢神宮外宮の創建は、『止由気儀式帳』によれば雄略天皇の御世であるとされる[10]。『止由気儀式帳』の伝承では以下のような由緒が記されている[11]。
この伝承が史実であるかは疑わしく、伝承通り外宮が皇大神宮(内宮)より後で創建されたかどうかも不明である[12]。創建時期はともかく、創建以来伊勢国造の子孫を自称する度会氏が代々外宮の禰宜(ねぎ)を世襲した[13]。 高倉山山頂には6世紀頃築造と見られる「高倉山古墳」がある[6]。この古墳は円墳で直径32m、高さ8mあり、内部は横穴式石室になっている[6]。「天岩戸」と呼ばれ信仰の対象となっていた[6]。 豊川町の西隣にある八日市場町の蛭子社から下馬所(げばどころ)と呼ばれる外宮一の鳥居前までの間は上古、斎王の通る道として仮小屋の市店を除いて建物を建設することは許されなかったため、街は発達しなかった[14]。その後、斎王制度の廃止により仮小屋が住宅となり、道路も二手に分かれ[14]、次第に街が形成されていった。『杉の落葉』によれば、中世には市場が立ち、市場の神を祀る夷社もあった[6]。この市は5日に開かれた[15]。室町時代には連歌師宗祇が訪れ、岩淵町との境界に架かる下馬橋の前の柳の木を以下のように詠じている[1]。
近世から近代の宮域整備まで江戸時代には伊勢国度会郡に属し、下馬所前野町(げばどころまえのまち)または山田下馬所前野町と称した[1]。文献によっては「下馬所」と「前野町」を分けるものもあるが、山田十二郷を数える際には1つの町として扱っている[1]。自治組織「山田三方」の配下に置かれていた[1]。山田三方会合衆の1家である山田大路家がここに居を構えた[1]。町名の通り外宮前に広がる原野であったが、江戸時代より民家が増え始め、寛永17年(1640年)に山田奉行の花房幸次が隣接する岡本町との間に新道を開いた[1]。この時、外宮宮域の勾玉池ができたとされる[1]。御師は24軒あり、212,000戸もの檀家を有していた[6]。 江戸時代を通して火災が多く、寛文10年(1670年)の火災では町内の10寺がすべて焼失し、その後再建されることはなかった[1]。ほかにも寛文12年(1672年)、享保2年(1717年)、明和元年(1764年)に火災に遭っている[1]。こうした中、外宮の防火のため慶安元年5月(グレゴリオ暦:1648年6月 - 7月)には宮域整理が行われ、上御井神社前まで建ち並んでいた民家を撤収させた[16]。宝永4年10月4日(グレゴリオ暦:1707年10月28日)に発生した宝永地震では山田全体で300戸が倒壊したとされるが、この地震の影響で外宮境内の御池では、清水の流入が途絶えてしまったと言われている[17]。 明治に入ると禰宜の世襲制が廃止され、内務省所管の神宮司庁による任命制に移行した[18]。時を同じくして、教部省は『延喜式神名帳』および『延暦儀式帳』に記載のない神社を一律に神宮所管から外し、度会県および三重県管轄に移行する改革を行い、上御井神社や茜社などが外宮から離脱する混乱があった[19]。上御井神社は神宮所管に復したが、茜社は氏子の同意を得られず神宮に復帰することはなかった[20]。 学制発布により、1874年(明治7年)に館学校(後に統合されて伊勢市立厚生小学校になる)が町内に開校する[1]。1877年(明治10年)に町名を豊川町に改めた[1]。三重県立宇治山田商業高等学校の前身校や神宮農業館はこの豊川町で創立した[1]。1889年(明治22年)、外宮前に神苑を建設するために民家127戸を撤去し、昭和の第二次世界大戦中にも民家の撤去が実施され、豊川町はほぼ全域が外宮の宮域となった[3]。明治期に神苑建設のために撤去させられた住宅地が「前野」であり、東西方向に通じる道路が4本存在した[21]。 現代1966年(昭和41年)、住居表示の実施により豊川町の一部が分離、本町・岩渕一丁目・岡本(一丁目 - 三丁目)となった[3]。 2003年(平成15年)1月25日、外宮忌火屋殿(いみびやでん)が全焼する火災が発生した[22]。2009年(平成21年)10月15日、外宮で行われる「日別朝夕大御饌祭」(ひごとあさゆうおおみけさい)にちなんだ新名物「御饌丼」(みけどん)の試食会が豊川町で開かれた[23]。 2012年(平成24年)4月7日、勾玉池前にせんぐう館が開館し[24]、外宮参拝者の増加に貢献している[WEB 5]。2013年(平成25年)10月5日には、第62回神宮式年遷宮の中核行事である遷御(せんぎょ)の儀が外宮で行われ、約4,000人の特別奉拝者が見守った[25]。同年10月13日には外宮別宮の多賀宮で遷御の儀が催行された[WEB 6]。 沿革
町名の由来豊川町は、宮域を流れていた豊川に由来する。 旧町名「下馬所前野町」は「下馬所」と「前野町」を合わせた名称で、「下馬所」は外宮前を通過する際に通行人が馬から下りた所であることに由来し、「前野町」は外宮前の原野に由来する[1]。 町名の変遷
人口の変遷1643年以降の人口の推移。なお、1995年以後は国勢調査による推移。
世帯数の変遷1643年以降の世帯数の推移。なお、1995年以後は国勢調査による推移。また、
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 12]。
交通1961年(昭和36年)までは三重交通神都線(路面電車)が町内を走っていた[3]。
施設外宮関係出身者脚注
文献
参考文献
関連項目外部リンク |