角田啓輔
基本情報 | ラテン文字 |
keisuke tunoda | 生年月日 |
1933年1月19日 | 没年月日 |
2024年9月1日(91歳没) | 国籍 |
日本 | 出身地 |
宮城県 | 選手情報 | 段級位 |
8段 | 利き腕 |
右 | グリップ |
ペンホルダー | ITTFサイト |
WTTプロフィール | 経歴 | 学歴 |
宮城県古川高等学校 | 中央大学 指導歴 |
卓球日本代表強化委員 |
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■テンプレート ■プロジェクト:卓球 ■選手一覧 | 角田 啓輔(つのだ けいすけ、1933年1月19日 - 2024年9月1日)は、日本の卓球選手。荻村伊智朗、田中利明らと共に日本卓球界に黄金時代を築き、「史上最速の強打者」と言われた選手。 経歴宮城県志田郡古川町(現在の大崎市)出身。古川町立古川中学校(現:大崎市立古川中学校)時代に卓球を始め[1]、宮城県古川高等学校卒業と同時に大学入学の費用を稼ぐため、東京・日暮里の卓球ラケットメーカー・アームストロングに就職。3年間の社会人生活を送る。アームストロングが建設した東京卓球会館の2階の6畳一間に住み込みで働き、仕事終了後は東京卓球会館で腕を磨いた。当時、東京卓球会館には荻村伊知郎、富田芳雄、大川とみなど、錚々たる顔ぶれが練習にきており現在では「伝説の卓球場」と呼ばれている。 1952年、世界選手権六回優勝(バーグマン4回、リーチ2回)の記録保持者、英国のリチャード・バーグマンとジョニー・リーチ選手が来日し日本各地で30数回の国際試合(日英対抗戦)をしバーグマンに日本人でただ一人勝利した[2]。 原田力蔵アームストロング(株)会社社長が発明したスポンジラバーを佐藤博治と共に貼ってプレーした最初の選手でもある。 社会人を経て中央大学へ進学。大学在学中に卓球日本代表に選出され、第23回世界卓球選手権(日本・東京)及び第24回世界卓球選手権(スウェーデン・ストックホルム)の2大会では、荻村伊智朗、田中利明らと共に日本団体2連覇し「卓球日本」の名を高めた。この功績が讃えられ1956年度と1957年の2年連続で朝日スポーツ賞を受賞した[3]。 全日本卓球選手権大会男子シングルスでは田中利明と1954年~1956年の3年連続決勝で対戦して三度敗れ、準優勝という記録を残している[4]。 1958年に中央大学を卒業し[5]、日立製作所へ入社してプレーを続けた後に指導者に転身、長谷川信彦、深津尚子、森沢幸子など三人の世界チャンピオンを育てあげ、日本卓球協会強化委員などを務める[6]。 また1972年には日本卓球OB団長として中華人民共和国を訪問、周恩来国務院総理と会見するなど日中間のスポーツ交流にも尽くした[7]。 現在は世界選手権出場、日本代表選手で構成される「名球会」会長、中央大学白門卓球会(OB会)名誉会長[8]、第一警備保障顧問[6]などを務めた。 「卓球王国 伝説のプレイヤーたち第7回」で特集された[9]。 主な戦績
表彰
関連項目脚注
外部リンク
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