西沢笛畝西沢 笛畝(にしざわ てきほ、1889年1月1日 - 1965年10月24日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。人形の収集や評論でも知られる[1]。 生涯東京・浅草千束町の絵看板店に生まれる[1]。旧姓は石川[1]。本名は昂一[1]。日本画の修業中に人形収集家の集い「大供(おおども)会」で実業家の西沢仙湖と出会い、収集品の継承を託されて同家に婿入りすることになった[1]。荒木寛畝・荒木十畝に師事し、花鳥画を学んだが、人形絵を得意とした。1915年(大正4年)第9回の文展に「八哥烏の群れ」が初入選、文展、帝展などに出品、人形を収集・研究した。1924年(大正13年)、画報社から磯田長秋、織田観潮、川崎小虎、川村彩天、桐谷洗鱗らとともに『大正震災木版画集』(全36図)という版画集を出す。これは1月から毎月3図ずつ刊行した。 1934年(昭和9年)、帝展の審査員に選ばれる[2]。 1959年(昭和34年)70歳で紫綬褒章受章。 1965年(昭和40年)10月板橋区常盤台自宅で逝去(76歳)。後、従五位勲四等旭日小綬章。墓所は谷中観智院。
著書
人形収集家「人形芸術運動」を展開して美術界に働きかけ、1936年の帝展で人形を芸術品として初入選させるなど、それまで玩具としてのみ扱われていた人形を芸術品として評価するきっかけをつくった[1]。 笛畝は蒐集した人形コレクションを一般に公開する施設を建設することを希望していたが、存命中に施設を建設することは叶わなかった。長女で日本画家の西澤豊水がその意志を継いで、父の没後20年を記念して笛畝人形記念美術館(埼玉県越生町)を私財で建設して1986年に開館した。しかし、 美術館の運営が困難になったことを理由に豊水は美術館を閉館すること決め、2006年にコレクションを岩槻人形協同組合へ譲渡した。同組合は人形会館の建設を進めていたさいたま市に寄贈し、同市は会館の収蔵品として展示していくと表明した。こうして2020年に開館したさいたま市岩槻人形博物館(さいたま市岩槻区)の収蔵品の約7割は、笛畝のコレクションである[1]。 出典参考
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