西川吉之助
西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日[1] - 1940年7月18日)は、日本の教育者。大正から昭和初期に日本の聾学校/聾教育に口話教育の普及を推進した教育者。大阪市立聾学校(学校名は当時。現在は大阪府立中央聴覚支援学校)校長の高橋潔とは、『手話の高橋、口話の西川』と対比された。 経歴1874年、滋賀県蒲生郡八幡町(現・近江八幡市)生まれ[1]。父は八十二郎、母はきち(西川吉輔の五女)[1]。東京の私立商業素修学校卒業後、1895年に私立小樽商業夜学校を設立するが2年で廃校となる。その後、西川傳右衛門家を継ぎ、西川貞二郎の長女・君と結婚した[1]。 元からの教育者ではなく、耳が聴こえない三女の濱子(はま子)のために始めた口話法が当時の社会で評判を博したため、教育者の道に進んだ人物である。財産家(実家は滋賀県近江八幡で、北海道のニシン漁を営んでいた)であり、自身も外国語(英語・ドイツ語)に堪能であった。 口話法教育を始めた理由娘の濱子の耳が聞こえないことが判明した時、聴覚障害者に理解のない当時の日本で、どうしたら(音声)日本語を用いて社会自立できるように育てられるかを考えだ末、当時、アメリカで開発された oral education methodを日本に広めようと考え『口話法』として、その展開に生涯をかけた。西川吉之助自身の言葉は次の通りである。 「手真似により筆談に依らなければ、他と交渉のできない濱子を他人の前に同伴する場合直ちに人は濱子を唖と賎しむでせう。劣者弱者欠陥者に同情の念の薄いのが日本人です。出来るならば私は我が愛する濱子に此の辱を受けさせたく有りませんのみならず進んで誰とでも談笑し普通学校にも学びえられ智力が許すならば高等学校にも学びえられ智力が許すならば高等の学問も修めさせて世人から欠陥を持つ少女として取扱はれない様にしてやりたいのが私の希望です。左様とするのは発音法に依つて教育するのが一法ある計りだと存じました」(『口話式聾教育』1925年) 口話法の指導者としての歩み
参考文献
脚注関連人物関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia