西岸寺 (長野県飯島町)
西岸寺(せいがんじ)は長野県上伊那郡飯島町にある臨済宗妙心寺派の古刹。山号を臨照山と称する。本尊は宝冠無量寿仏である。 歴史弘長元年(1261年)大覚禅師により創建と伝わる。[1][2] 寿永年間(1182~1183年)西岸寺地東南に、鎌倉幕府御家人の飯島氏が城を構えていることから、幕府の庇護を受けた禅宗をこの地に創建するのに、飯島氏がかかわったと推定される。[1]2世大通禅師は初祖の偉業を讃え大覚禅師の尊像を安置した。 この像は昭和48年(1973年)長野県宝に指定された。[1] 康安元年(1361年)6世住持となった大徹至鈍により、寺の沿革や寺と飯島氏との関係や内規など書かれた「西岸寺規式」が文書として残る。寺や一門の規則で、昭和60年(1985年)長野県宝に指定された。 「西岸寺規式」によると6世大徹至鈍を中興として、臨照山西岸禅寺と呼び、開山大覚禅師、2世大通禅師、3世大本禅師、4世初翁和尚、5世少林和尚までの住持の名が挙げられている。[2] 6世大徹至鈍は飯島氏一族の出身者で、祖父為観、父為空、幼名を益房。西岸寺の再興のため、物心両面での寺の整備が必要と、規則を作ることから取り組み実践した。[2] 応安6年(1373年)寺の三檀那、飯島城主為光、為光の従兄為盛、為光の大叔父為高が寺領を寄進し、室町幕府より諸山の官寺と定められ、この地の一大霊場として発展した。[1][2] 文正元年(1466年)10世瑤林正玖和尚が住持に任命された時に、五山、十刹等の住持から贈られた祝文「瑤林正玖住西岸寺京城諸山疏」が残り、昭和47年(1972年)県宝に指定された。[2][1] 天正10年(1582年)織田信長の伊那侵攻により、飯島城が落ち、西岸寺も兵火により焼失するも弁天堂、水月庵は免れた。時の住持16世正巖全直首座は本尊を守り復興の基礎を作ったと伝わる。[1] 慶長6年(1601年)徳川家康配下の伊那郡代官朝日受永より、朱印地28石を寄進される。貞享2年(1685年)朱印地28石の内上片桐の瑞応寺に5石、上久堅の玉川寺に3石を分けて、将軍が変わる度に朱印状を受けた。[2] 元和元年(1681年)美濃国正眼寺から入寺された、大極唯一和尚と先代虚雲義舟和尚が建長寺派から、京都妙心寺派の寺院として確固たる基礎をつくり現代に至る。[2] 春谷知乗和尚は宝暦5年(1755年)に白隠禅師を訪ね、伊那の地への巡錫を願い、宝暦7年(1757年)白隠禅師が西岸寺で仏祖三教会を開講する。全国各地より150名を超える僧徒、尼僧等が集まった。[2] 天保年間の鶻山古柱和尚は天保3年(1832年)妙心寺玉鳳院の塔主職に任命され、安政2年(1855年)妙心寺の住持職に任命された。[2] 明治19年(1886年)観音堂より出火、本堂等焼失する。[2]明治25年(1892年)本堂再建。昭和34年(1959年)、本堂等火災焼失。昭和38年(1963年)本堂再建、昭和41年(1966年)には開山堂、位牌堂、納骨堂を再建した。 伊那七福神 恵比寿の寺として札所に登録されている。 境内
文化財
所在地
交通
出典参考文献
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