西公園 (仙台市)
西公園(にしこうえん)は、仙台市青葉区桜ヶ岡公園に所在する都市公園。 仙台市都心部の西部、広瀬川の左岸沿いにあり、仙台市内で最も古い都市公園である。 当公園の所在地は「桜ヶ岡公園」であることから、正式名称は桜ヶ岡公園であると誤解されがちであるが、現在の正式名称は「西公園」である[1]。 概要広瀬川を挟んで向かい合う青葉山公園や、当園に隣接する定禅寺通と一体となり、「杜の都・仙台」を象徴する地区を形成している。また、勾当台公園に次いで様々なイベントが開かれる集客装置でもある。園内には約190本の桜が植えられており、市内では花見の名所として著名で、例年4月中旬頃には花見客で賑わう。また、C60形蒸気機関車唯一の保存機がある。 位置・地形西側を広瀬川、北側を仙台市民会館、東側を西公園通、南側を仙台城大手門前から大橋を渡って続く大橋通[2]で囲まれる。公園の中央を東西に立町新丁(広瀬通の西に続く道。上下2層に分かれる仲の瀬橋の上層を通る一般道は市道仲の瀬橋線[3]、下層を通る自動車専用道路は国道48号仙台西道路)が貫き、北東端に定禅寺通、南東端に大町および青葉通が接続する。 園内は、西南部が広瀬川の水面に近い河岸段丘の「仙台下町段丘」面上の部分であり、他の大半が、都心部と同じ段丘面で下町段丘より標高が高い「仙台中町段丘」面上の部分となっている。この2つの段丘面と、両者の間の段丘崖(仲の町崖)が地形的構成となる。中町段丘面部分は、立町新丁によって南北に2分割されているため、園内は大きく3つの部分に分かれる。 広瀬川を挟んだ対岸には、広瀬川仲ノ瀬緑地(仙台七夕花火祭の花火打上場所)、青葉山公園、仙台城、仙台市博物館、仙台国際センター、宮城県美術館、宮城県仙台第二高等学校、東北大学川内キャンパスなどがあり、文教・公園地区の一部を構成する。 歴史16世紀までは原野であったため、近隣の村の草刈りなどを除き、人の居住・耕作などの活動はなかったと考えられる。 江戸時代、仙台中町段丘部分は仙台藩家臣の武家屋敷が並んでいた。本柳町に面したところは小さな区画で中級家臣が住み、その後ろに広い敷地の上級家臣の屋敷があるのが通例だったが、時期により区割りに変動がある。城下絵図などから推定すると、青葉通の延長となる道路に面する南西角には、寛文4年(1664年)に白石の片倉氏の屋敷があり、延宝5年(1677年)に移転した。元禄4、5年(1691年、1692年)頃に津田民部、宝暦・明和年間から安政3から6年頃(1751年から1859年頃)には岩沼の古内氏が住んでいた。その北、今グラウンドがあり広瀬通に面するところには、伊達安房(亘理伊達氏)の屋敷があった。下町段丘部分は上中ノ町という町名で、小人(伊達家直属の従者)の居住地であった[4]。 戊辰戦争敗北により仙台藩家臣は没落し、屋敷跡は広瀬川を見下ろす名勝地として櫻岡大神宮・料亭・芝居小屋などが設置されていく。その流れの中、1873年(明治6年)1月15日の公園開設に関する太政官布達により、宮城県も屋敷跡を取得して1875年(明治8年)6月に桜ヶ岡公園(さくらがおかこうえん)を開園した。 後に市の東に「榴岡公園」が作られたとき、これを「東公園」として、桜ヶ岡公園は西公園とされた。これら2つの公園は各々2つの名称を保持していたが、一方は榴岡公園、当方は西公園の名が定着した。当園は開園から戦中まで、4度も博覧会の会場となるなど、市を代表する公園の1つとなっていった。 第二次世界大戦中には園内に防空壕がいくつも造られ[5]、仙台空襲では周辺も含めて建物が焼失した。空襲で住居を失った避難者が1974年ごろまで公園内の防空壕に居住していた[5]。戦後復興期に、園の北側に隣接してあった仙台偕行社や常盤木学園高等女学校、さらには上中ノ町の住民も移転させて同園を拡張した。仙台市は拡張部分を別の緑地帯として計画したが、河北新報でその名前を公募・投票にかけたところ、「西公園」を推す意見が多数を占めたため、西公園の一部にした。園内に鎮座する櫻岡大神宮は、政教分離によって名義上公園から外れ、源吾茶屋も園外となった。 仙台西道路の建設の際、当園の一部が道路用地に転用された。2015年(平成27年)の仙台市地下鉄東西線開業の際には大町西公園駅が園内から青葉通りにかけての地下に建設され、また、これに合わせて園全体の再整備も行われた。 年表以下の年表には、現在の公園の範囲内の出来事を掲載している。 前史
開園後
戦後
施設街区内・園内
街区内・園外以下の施設は、管理上、園内ではないことになっているが、西公園のブロック内にあるため園内の施設と認識されて紹介されることも多い。
主な利用実績2004年度実績
廃止・移転した施設
主なイベント→「櫻岡大神宮 § 祭礼」も参照
アクセス※ 仙台市電があった頃は、大町西公園前と市民会館前の2つが最寄電停であった。 脚注
参考文献外部リンク
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