袰月
袰月(ほろづき)は、青森県東津軽郡今別町にある大字。旧津軽郡、田舎庄袰月村、東津軽郡袰月村、東津軽郡一本木村袰月に相当する[5]。郵便番号は030-1513[2]。域内の人口および世帯数は2020年10月実施の国勢調査によると、57人、33世帯である[1]。古くは両翼突[注 1]、母衣月[注 2]、縨月[注 3]、保呂豆木[注 4]とも[6][7]。 地理町の東部、袰月川下流域に位置しており、西と南で大泊に、東で砂ケ森と接し、北で津軽海峡に面する。国道沿いに集落が展開されており、イカや海藻などの沿岸漁業が行われている地域で、出稼ぎに出る人が多く、過疎化が進んでいる。 小字袰月の小字は以下の通りである[4]。
海洋・河川
袰月海岸袰月海岸(ほろづきかいがん)は袰月内に所在する海岸の景勝地で津軽国定公園内にある、鋳釜崎から高野崎にかけての海岸を指す[7][9]。断崖が直接海に迫り、数多くの名所があるほか、津軽海峡に面しているため、北海道を望むことができる[7]。また、美しい舎利石を拾うことができるため、舎利浜という別名をもつ[7][6]。津軽一統志の産貢には
と記され、ここを旅する人たちは舎利石を求めることに熱心であったとされる[6]。なお、舎利石は今別海岸で採れる今別石と同じくメノウの一種である[6]。
と記している[7]。 古川古松軒も東遊雑記のなかで と記している[7]。 歴史耕地が少なく、主に漁業に従事していたためか、江戸期の郷帳類には村名が見えず、山崎村・奥平部村・砂ケ森村・大泊村と同じく、一本木村の支村として存在していたとされる[7]。 天文年間の津軽郡中名字に、「綱不知」、「夷(をこたらへ)[注 5]」と並んで両翼突(ほろつき)と見えるほか、1645年(正保2年)の津軽郡之絵図の海岸に「ほろつきの間西風わるく」と記され、高野崎と袰月の間に番所と思われる舎屋が記されている[6]。これらの印は1808年(文化5年)の一里塚図にも見られる[6]。 1755年(宝暦5年)の津軽外之浜後潟組犹御改覚によると奥平館、袰月、大泊、松ケ崎、六条間、藤島、釜野沢、宇鉄の八ケ村で合計234人のアイヌ人がいたとされる[10][11]。
と袰月について記述されている[6]。 寛政伊能忠敬測量日記によれば、1802年(享和2年)には人家14軒、1850年(嘉永3年)の東奥沿海日誌によれば人家40軒、明治元年の新撰陸奥国誌によれば人家34軒であったとされる[6]。 松浦武四郎は当地について、
と記し、高野崎に設置された砲台を見て、
と著している[7]。 明治2年の諸組村寄帳では後方(後潟)のうち一本木村、奥平部村、袰月村、砂ケ森村、大泊村の各村がそれぞれ一村として見えており、明治4年に弘前県を経て、青森県に所属するも、明治元年の国誌では再び一本木村の支村として扱われ、その村況は
という[7]。その後は一本木村の支村として扱われることは少なくなり、現に明治7年の県管内村名簿では山崎村のみが一本木村の支村として見える[7]。 沿革
地名の由来山田秀三によると、袰はアイヌ語のポロ(大きい)で、月は日本語の杯(つき)を借用した語であり、袰月は大ぶりの酒椀の形に深くえぐられた湾ということでポロトゥキ(大酒椀)という地名になったとする戦後に出てきた新説がある[14]。しかし、本州の場合、北海道とは違いアイヌ遺跡は本州には無く、古くからこの辺りに継続して生活する本州和人とは対照的に後に遅れて北海道から本州に入ってきたアイヌが居住していたのはごく少数であり短期間だった(『東遊雑記』古川古松 《天明8年-1788年》)。アイヌ語継承者やアイヌ遺跡が存在しない本州においては山田秀三のアイヌ語由来地名説を裏付けるには根拠が希薄である[15]。したがって「袰月」(本来は『両翼突』《ほろづき》の漢字表記)の地名の由来は依然不詳のままである[5]。 施設統計域内の統計は2020年10月実施の国勢調査によると、以下の通りとなっている[1][19][20]。
1960年(昭和35年)時点での人口は480人、世帯数は88世帯、1970年(昭和45年)時点での人口は331人、世帯数は80世帯、1980年(昭和55年)時点での人口は261人、世帯数は71世帯であったことから、2020年現在に至るまで、着実に過疎化が進行していることがうかがえる[7]。 交通鉄道道路バス
教育公立学校であれば、今別町立今別小学校と今別町立今別中学校に進学する。 ただし、域内の在学人口は2020年10月時点では0人である[20]。 文化茶めし茶めしは袰月地区に伝わる郷土料理で、今別町内でも袰月地区以外の地区ではほとんど知られていないとされている[23]。カワラケツメイの粉末と金時豆をもち米やうるち米と混ぜて炊いた料理で、主に葬式で振る舞われる[23]。近年では、この茶めしを中核とした観光商品の開発が進められている[24]。 文化財・遺跡産業労働力人口は26人で、そのうち9人が農林漁業に従事しており、漁業に関しては、域内に一本木漁港が存在し、ワカメや天草、もずく、えご、昆布といった海藻類のほか、イカなどが名産である[26][27][5]。 寺社仏閣
人物脚注注釈出典
参考文献
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