虹色のトロツキー
『虹色のトロツキー』(にじいろのトロツキー)は、安彦良和による日本の漫画。『月刊コミックトム』(潮出版社)にて、1990年11月号から1996年11月号まで連載された[1]。 昭和初期の満州国を舞台にした作品であり、日蒙ハーフの主人公が当時メキシコに亡命していたレフ・トロツキーを満州に招く「トロツキー計画」に関わり[2]、紆余曲折を経ながら自身のルーツや民族的なアイデンティティへと迫っていく[1]。 潮出版社から単行本、中央公論社より中公コミック文庫版、双葉社より愛蔵版が出版されている[3]。 作品背景作者の安彦は1989年に公開されたアニメ映画『ヴイナス戦記』の製作終了後[4]、「アニメの世界から距離を置きたい」「アニメの色を打ち消した作品を手掛けたい」という希望を持ち、古代史を題材とした『ナムジ』を描き始めるが、次いで、特に面識もないのに何故か毎月献本されていた『コミックトム』へ持ち込みに近い形で作品を発表することになった[5]。安彦は当時について「『コミックトム』という非常に面白い雑誌にチャンスをもらった。横山光輝さんらもいて、それこそ祝祭感というか、ウキウキしていたのを覚えています」と語っており、献本されていたのも『石の花』を連載していた坂口尚の紹介ではないか、としている[6]。また、安彦の企画にゴーサインを出したのも『石の花』の担当編集者であった浮田信行だった。 作品を手掛けるにあたり「従来の被害と不正義を告発するような被害者的視点と、『馬賊もの』と称されるようなお楽しみ系、そのどちらでもないものを描きたい」と考え、「等身大の主人公に視点を置きつつ、同時に政治的な満州を見渡す」ことを意図した[7]。本作品の舞台となった満州国および第二次世界大戦前夜の世界情勢は、さまざまな勢力が敵や味方、思想の左右を問わず、離合集散を繰り返すなど複雑とした様相を呈していたが、こうした情勢をウムボルトという主人公を創作することで作者なりに追体験している、としている[8]。 さらに構想の過程で建国大学という題材に辿り着き、OBに取材を申し出て当時の資料を参考にするうちに興味を抱き、建大を舞台にした青春記に転換することも考えたが、心が惹かれるテーマが多く、実現することはなかった[7]。また、作品終盤には、満州国の終焉や国共内戦まで描くべきかと悩んだが、主人公・ウムボルトが生きるには歴史が過大すぎるという考えから最終的にはノモンハン事件で物語を閉ざさざるを得なかったとしている[7]。 なお、『ユリイカ』2007年9月号のインタビューによれば、構想の段階では『将軍とトロツキー』というタイトルであり(将軍とは石原完爾の意[4])出版社側からはトロツキーという名と堅いタイトルから難色を示されたが、トロツキーをタイトルに入れることにこだわり、彼の伝記ではないという説明を行った上でタイトルを変更したという[4]。無難なものではなく堅いタイトルにこだわった理由については「アニメの片手間に描いているのではないというサイン」[4]、あるいは「表現者としてアジア主義に取り組むぞというひとつの意志表明」としている[9]。 あらすじ1938年(昭和13年)6月、日蒙混血の青年・ウムボルトが建国大学(建大)に特別研修生として編入するところから話が始まる。彼は幼い頃にトロツキーに似た何者かに家族を虐殺され、自身も記憶を失っていた。ウムボルトは周囲とぶつかりあいながら、自らの失った記憶と混血故に曖昧なアイデンティティを求めている。ウムボルトは後見者でもある関東軍の石原完爾や合気道師範の植芝盛平らから、亡き父である深見圭介が陸軍の大陸工作に関わっていたことや、それが記憶を失う原因につながっていることを掴むが、はっきりしたことは分からずじまいだった。 その後、石原が病気療養のため本国に帰還したことで、ウムボルトの後見は石原の部下であり信奉者でもある辻政信に一任される。もともと石原自身がウムボルトの記憶を利用して「トロツキー計画」を実現させようとしていたとはいえ、石原は謀略の犠牲となったウムボルトへの贖罪の意図もあって建大に編入させていたようだが、辻はウムボルトを謀略のための手駒としてしか見ていない。ウムボルトは辻からの命令を反故にして故郷に戻り、幼馴染で抗日運動家の孫逸文ことジャムツや、彼と行動を共にする麗花と出会い、彼らと今後も同志として情報を交換する旨を約束する。建大に戻ったウムボルトは、五族協和の理想からかけ離れた満州の現状に抗おうとする日本人学生たちと出会う。そのうちの一人が発した若山牧水の詩を聞いたウムボルトは、記憶を失う原因を知りたいという探求心から、あえて「トロツキー計画」の渦中へと飛び込んでいく。 ウムボルトは辻とともにハルビンへと赴き、かつて父と関わりのあった亡命ロシア人と接触するが、その矢先に男は何者かの手により謀殺される。さらにウムボルトは「トロツキー計画」を危ぶむユダヤ評議会の手の者によって拉致され、ハバロフスクに送られそうになるが、ジャムツ、麗花ら抗日戦線のメンバーによって救出される。抗日戦線の宋丁良らの密告によってウムボルトの生存を確認した辻も、かつて抗日運動をしていた時に一度ウムボルトを逮捕したことのある奉天特務機関の楠部金吉に指示を出し、ウムボルトの確保に乗り出す。混乱の中、ジャムツとはぐれたウムボルトは、直接対決の末に楠部を殺害することになる。これにより表社会に戻れなくなったウムボルトであったが、堂々と日本人と戦い勝利する姿を見た宋丁良は、自分たちの頭目に迎える。ウムボルトは「真の五族協和を成し遂げたい」と理想を掲げ意気込むも、宋は組織としての行き詰まりを打開するべく、抗日聯軍第八軍を率いる謝文東を頼ることを進言。1939年(昭和14年)1月、牡丹江で謝の第八軍に合流する。 同年2月、内地では舞鶴要塞司令官となった石原の下を元新聞記者の尾崎秀実が訪れていた。尾崎は近衛文麿のブレーンという肩書きの持ち主で、満鉄調査部嘱託として満州に向かう予定なのだという。尾崎は石原の思想に賛同し東亜連盟の活動への協力を申し出る一方で、対ソ工作の中止を訴えるが、満州在住の日本人居留民への想いと、ソ連への危機意識が念頭にある石原は拒絶する。が、後に心変わりを起こした石原は辻宛てに謀略を思い留まるよう促す電報を送り、彼を驚愕させるのだった。 その頃、ウムボルトは、建国大学で学習した知識や技術によって活躍、宋の死後は部隊を名実ともに引き継ぎ、その実績によって謝からも信頼を置かれるようになる。一方で第八軍は寄せ集めの集団でしかなく、敵となった満州国軍も満州民族により構成された軍隊であり、ウムボルトは戦いに空しさを覚える。また、謝の方針に異を唱えるものが現れるなど離反者が続出、日本軍の工作により組織壊滅は時間の問題となる。こうした状況の中、ウムボルトは露営する雪山の中で、かつての師匠・植芝に伴われた安江仙弘大佐と対面し、聯軍としての活動を終えることになる。 同年3月、ウムボルトは父のかつての同僚でもあり、関東軍大連特務機関長にしてユダヤ通である安江に「トロツキー計画」と呼ばれる謀略の阻止と辻政信参謀の暴走を止めるため協力するように要請される。ここで、ウムボルトは初めて自分の父が関わっていた謀略「トロツキー計画」について部分的に知ることになり、なぜ母が(トロツキーに似た人物に)殺されたのか、彼は何者だったのかを知るために、安江に従うことになる。安江のもう一つの目的は石原同様に謀略の犠牲になった同僚(深見圭介)の息子を保護することにあり、そのため、ウムボルトは満州国軍に少尉として任官し満州国の士官学校である興安軍官学校に赴任する。 軍官学校では初めて同僚として赴任する日本人とも交流を深め、モンゴル人の生徒と相対する中で自らのアイデンティティへの認識を深めていく。さらに、校長代理であり幼少期に親しくしていたウルジン将軍と再会して、過去の断片的な記憶を取り戻すとともに、ここでもまた「トロツキー計画」について聞かされる。その際、ウルジンはウムボルトに対して彼の中に隠された記憶の危険性から、仇討ちを思い留まり、現実と折り合いをつけることこそが、最善の道だと忠告をする。 その後、ウムボルトは安江大佐の命を受けて上海へ渡り、「トロツキー計画」を阻止するべく幼い日の記憶に残る謎の男「偽トロツキー」と対面する。が、既のところで阻まれた上、ウムボルトは頑なに「幼い日のトロツキーと偽トロツキーが同一人物」とは認めようとはせず、安江らによる妨害工作は失敗に終わる。ウムボルトはこのあたりで「トロツキー計画」と自分の家族に起きた事件の全貌をほぼ掴んだのだが、事件の真犯人は分からない。そのことは安江も気づいており、これ以上ウムボルトを工作活動や「トロツキー計画」と関わらせていては(ウムボルトにとって)危険との犬塚惟重大佐(安江とともにユダヤ人工作をしていた)の判断により、ウムボルトは再び興安へと戻される。 上海から興安へと向かう汽車の中でウムボルトはジャムツと再会する。ウムボルトは上海で何者かに命を狙われていたが、それが満州国軍人・ジョンジュルジャップの指示によるものだと伝えられる。さらに彼から、日ソ間でまもなく大規模な戦争が始まるという情報を伝えられ、「中国戦線で孤立を深める日本に大義はなく、やがてソ同盟による正義の鉄槌が下される」と裏切りを勧められる。一方、ウムボルトは「言い分はもっともだが、ソ連の側にのみ正義がある訳ではない」と断り、安江大佐宅から失踪した後にジャムツの下に拘束され洗脳を受けていた麗花を助け出し、彼と袂を分ける。 同年5月、満蒙国境付近では関東軍と外蒙古(モンゴル人民共和国)との小規模な戦闘が続いていた。その外蒙を支援するソ連軍がハルハ川を越えて進軍中という情報を得た辻は功名心にかられ、国境付近への増派を決定。同僚の服部卓四郎らとともに内地の陸軍省ばかりか関東軍司令部までも欺き、独断で大規模戦闘を開始すべく次々と作戦立案を実行し、ついにノモンハンでの軍事衝突へと発展する。この直前、蒙古少年隊へ派遣されていたウムボルトは、少年隊付きのままノモンハンにかり出されることになる。ノモンハンでは少年隊と軍官学校生徒隊という練度・経験ともに低い部隊が最前線に配置され、ほぼ捨て駒の状態に置かれてしまうが、戦場という極限状態での共同生活、恩師辻権作少将との再会や花谷正大佐ら関東軍司令部と野田又雄少佐ら末端司令官の対立を目の当たりにして、ウムボルトは民族的なこだわりすら超越した認識を持つようになっていく。 同年6月、ウムボルトら少年隊・生徒隊は壊滅的な被害を受けるが、野田らの立案・ウムボルトの実行による満州国軍正規部隊との連絡と、正規部隊を率いるウルジンの進言によって、ようやく配置転換と補給が発令される。この後、ウムボルトはジョンジュルジャップの手引きにより関東軍司令部を訪れ花谷大佐と対面、「帝国陸軍の総意の下、対外工作に関わり張作霖爆殺事件の首謀者となった河本大作大佐を、さらなる嫌疑の露見から守るため、田中隆吉の手により両親は殺害された」という、自らの失われた記憶に関する事件の真相が明らかとなる。さらに「帝国陸軍の大義と国家の繁栄のために、犠牲は必要だった」と弁明する花谷に対し、ウムボルトは「他者に犠牲を強いるような大義に、正義はない」と憤りを見せ、刀の柄に手をかけるが彼を倒すまでには至らない。が、これによって危険視されたのか、少年隊や生徒隊の後方送致後もウムボルトだけは連絡役として前線に残されることになる。 同年8月中旬、内地では石原の下を尾崎が再び訪れていた。尾崎は関東軍の制止と対ソ戦の即時回避のための協力を訴えるが、石原は納得のいく回答を示さない。意を決した尾崎は「まもなく日本の同盟国であるナチス・ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶ」という情報を伝え、日本の対ソ戦プランは形骸化すると訴える。さらに「ソ連と結ぶことこそが石原の唱える王道実現の最善の道」と続けるが、石原は「所詮、政治も戦争も騙し合いの連続であり、純粋な者は利用され捨て去られるのみ」と取り合わない。二人の対話が物別れに終わった後、険しい顔つきの石原はノモンハンの地にいるウムボルトのことを想い遠くを見つめる。 その頃、ノモンハンの戦場では、石原の信奉者であった辻がソ連相手に一大決戦を挑み、幾百万の犠牲を強いてでも東亜の地に王道楽土を実現せんと息巻いていた。一方、前線のウムボルトは刻々と戦況が悪化する中、ソ連に投降しようとする日本兵に拳銃で撃たれるも、かろうじて命を繋ぎ止めて荒野をさまよっていた。ウムボルトは薄れゆく意識の中で「来るべき理想の世界」を夢想するが、果たすことなく力尽きる。 それから時が経ち、舞台は現代の東京へと変わる。1992年(平成4年)9月、建大OBと彼の下に取材に訪れた作者との対話の中で、ウムボルトの戦死が伝えられ、麗花は一人息子とともにウルジン将軍の庇護を受けてハイラルに住み、丘の上からノモンハンの方向を見つめていたという後日談が語られる。2年後の1994年(平成6年)秋、ウムボルトの息子が父の死の真相を知るべく東京秋葉原に現れ、その姿がウムボルトに重なっていく場面で物語は終わる。 登場人物主要人物
建国大学
ウムボルトの関係者
満州国軍
関東軍
満州国関係者
ハルビンの人々
抗日聯軍
上海の人々
その他
評価評論家の呉智英は本作品が満州国を題材としている点について、作者の安彦が同様に開拓によって開かれた北海道の出身であることの影響を[13]、作中のアジア主義の描写については中国文学者の竹内好からの影響を指摘している[13]。また、漫画原作者・批評家の大塚英志は作中の背景に満州におけるユダヤ人問題が絡む点など素材の目新しさや着眼点、作画技術の高さ、戦後民主主義的な価値観が描かれている点から安彦を、「手塚治虫に最も近いところにいる『正統派』の描き手である」と評価した[2]。 東洋史学者の塚瀬進は1990年代に本作品や山崎豊子の小説『大地の子』などの満州国を題材とした作品が人気を博した理由について、「満州国は日本人にとって忘却の彼方にあるのではなく、心の片隅にある、消せない存在であることの表れ」と評した[14]。 筒井清忠による評価社会学者の筒井清忠は本作について、満州を舞台とした作品の中で従来描かれてきた流れを「ある意味で総合しつつ、それらでは描き切れなかった満州のアラベスクの抽出に挑戦した意欲作」とし、建国大学を主軸に多彩な人物が絡みながらトロツキーをめぐり展開されるストーリーの構想力の大きさが魅力と評した[15]。 本作はノモンハン事件をもって実質的なストーリーを終えている。これについて筒井は「著者自身が昭和十年代の日本人と同じく、大陸の大きさにのみこまれてしまったということだろうか」とし、「マンガの限界を超えた著者の雄渾の筆致で、あらためて満州国(もしくは建国大学)の興亡の全体像を描き出してもらいたいと願う」と注文した[15]。 なお、安彦は『世界』1997年12月号のインタビューにおいて、仮に主人公のウムボルトがノモンハンにおいて戦死することがなければ、蒙古聯合自治政府を率いた徳王(デムチュクドンロブ)のように、外蒙を含めた真の蒙古独立を目指しただろうとしている[16]。ただし、時代の流れは徳王の予想をはるかに超えて変転していたし、またウムボルト自身は身体の半分に流れる日本人の血のために、真に蒙古ナショナリズムを支持する立場には立てなかったのではないかとしている[16]。 杉田俊介による評価批評家の杉田俊介は、主人公・ウムボルトが「様々な失敗や挫折を味わうが、無垢な若々しさや、健康的な青年性を失わない」点について、鬱屈や煩悩を抱える『王道の狗』の主人公とは対照的だと指摘し、本作には安彦自身の「全共闘時代の夢や理想が託されているのだろうか」と評した[6]。 これについて安彦は「あまり意識はしなかった」という[6]。『王道の狗』が講談社の担当編集者との間で「事前にテーマや内容を整理して、かなり計画的に話し合った」結果であるのに対し、本作は自由な環境の中で手がけたもので、「行き当たりばったり」という自身の傾向が典型的に表れた作品だといい[6]、「自分の過去を反映させたというよりもむしろ、この時代に生きている、という同時代感覚のほうが強い」と評している[17]。 いしかわじゅんによる批判一方、漫画家のいしかわじゅんは、2004年11月29日放送のNHK・BS2の番組『BSマンガ夜話』において本作が取り上げられた際、川島芳子や李香蘭の登場シーンと、植芝盛平が合気道の技を使って主人公を投げるシーンの2例を挙げ、前者については「ドラマに登場する必然性がない」、後者については「大友克洋的な動きが描けず、既定的な絵にしかなっていない」と批判した[18]。これに対し、安彦は白泉社版の『王道の狗』第4巻のあとがきにおいて、番組の後半部しか観ていないとした上で「そもそも川島と李の2人は中心ではなく客演者に過ぎず、合気道の技についてはプロレス技などと違い、中動作が極めて見えにくい。望むのであれば全ての動作を描いてもいい」と反論した[18]。 こうした論争について、同番組に出演したマンガコラムニストの夏目房之介は、いしかわに世間一般には失礼にあたる発言内容が、安彦には論点の食い違いがあったとしつつ、「大友的な動きを描ける場合のほうが圧倒的に少なく、商業的な要請からしても『決めの動作』で繋げることのほうがはるかに多い。それを例にして『動きを描けない』というのは、ほとんどすべての漫画家にダメ出ししていることになる」「古武術など動作が見えないのは事実」と評した[18]。さらに夏目は(川島や李のような)脇キャラが多く登場する点については「歴史モノ好きのリテラシーみたいなものがあり、ドラマの筋道と関係のない周辺知識の遊びに面白さがあったりする」と評した[18]。 また、評論家の伊藤剛は「大友以前の旧世代の作家という批判は一面では当たらない。大友が革新的であったように安彦も革新的であり、こうした並行性を認めた上で初めて、両者の差異を見出すことができる」と評し[19]、いしかわについては「何を『新しい/優れた』ものとするかという基準が80年代半ばごろの枠組みから更新されていない」という問題点を指摘した[19]。 書誌情報
脚注出典
関連項目参考文献
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