藤田定市藤田 定市[1](ふじた さだいち、1889年(明治22年)4月1日[2][3] - 1973年(昭和48年)9月3日[4])は、日本の実業家。フジタ工業(現・フジタ)会長[5]。広島県知事をつとめた藤田雄山は孫。 経歴広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれる[6]。藤田次助の三男[3][7][8]。1910年12月、21歳の頃、兄の一郎とともに広島市台屋町[注 1]で土木建築請負業を始める[10][11]。 土木建築請負業を営む[8]。1916年、「藤田組」を名乗り、兄の一郎が組長に、定市が副組長になる[10]。1944年、藤田組社長に就任[10]。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、定市は自宅で家屋の下敷きとなり、重傷を負う[6][10]。1962年、藤田組会長に就任[11]。 また広島商工会議所会頭、ラジオ中国(現・中国放送)、広島観光協会各会長[11]、東洋パルプ監査役などをつとめる[2][4]。 人物趣味はゴルフ[2]、囲碁[1][3]。宗教は真宗[2][3][7][8]。住所は広島市平野町[2]、同市翠町[8](現・広島市南区翠)、東京都世田谷区代田2丁目[1]、渋谷区元代々木町[2]。 栄典家族・親族
脚注注釈出典
参考文献
|