藤沢桓夫
藤沢 桓夫(ふじさわ たけお、1904年7月12日 - 1989年6月12日)は、日本の小説家。「藤沢 恒夫」と表記される場合もあるが、これは誤記である。 略歴大阪市生まれ。旧制大阪高校在学中に武田麟太郎(三高)・長沖一・神崎清らとともに同人誌『辻馬車』を発刊、1925年同誌に発表した「首」でデビューし新感覚派として目された。1927年大阪高校を卒業し東京帝国大学に入学、在学中は新人会で活動しプロレタリア文学に転向、1930年『傷だらけの歌』を書く。1931年文学部国文科を卒業したのち肺病で大阪に帰り、1936年『花粉』、1941年 - 1942年の『新雪』で新聞小説家として復帰。その後、大衆・流行作家として数多くの小説を書き、晩年まで関西文壇の長老として活動を続けた。 エピソード1931年秋に大阪朝日新聞文芸部の白石凡は、横山エンタツ・花菱アチャコのしゃべくり漫才をキタの花月の寄席で見た。コンビ結成以来漫才を自作してきたエンタツに優秀な漫才作者が付くと更に新しい漫才が期待できると考えた白石は、親交のあった藤沢に相談した。この時藤沢は高校・大学の同期で交流のあった文芸作家の林広次を紹介し、エンタツと引き合わせた。エンタツと林は意気投合して林は漫才作家に転向した。この林こそ後に「上方漫才の父」とも称される秋田實である。 アマチュア五段(没後七段を追贈された)の段位を持つ程の、文士きっての将棋好きとしても知られ、その腕前は山口瞳から「ほとんどプロに近い」と評されている。本人は奨励会の初段・二段と対等の棋力と書いている[1]。藤沢は四段・五段のプロ棋士と平手で指しだだけでなく、自分が香車を落とす手合いでも指したが、それは「どうみても行きすぎ」でプロ棋士の側の迎合であったと内藤国雄は書いている[2]。また、それを生かした将棋を題材にした小説や随筆を多く書き、新境地を開いた。 詰将棋の創作もし、また将棋棋士たちと盛んに交流・援助した[3]。 また野球好きとしても知られ、戦前は大阪の芸人である芦乃家雁玉とチームを結成したこともある。 親族等高松藩の儒学者の家系になる[4]。曾祖父は漢学者の藤沢東畡。祖父も漢学者の藤沢南岳。父も漢学者で関西大学初の名誉教授となった藤沢章二郎(藤沢黄鵠)。父方の伯父の藤沢元造(藤沢黄坡)は衆議院議員。 母方の叔父は東洋史家の石濱純太郎。その息子で作家石浜恒夫は従弟。 また、直接の関係は無いが歌手の藤島桓夫の芸名の由来である。 著書
小説集
共著
翻訳出典 |
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