藤原義忠
藤原 義忠(ふじわら の のりただ)は、平安時代中期の貴族・歌人・儒学者。藤原式家、大和守・藤原為文の子。官位は正四位下・権左中弁、贈従三位・参議。 経歴対策及第を経て、一条朝末の寛弘7年(1010年)頃に少内記に任ぜられると、後一条朝の初頭まで約10年に亘って内記を務め、この間の寛仁元年(1017年)式部大輔・藤原広業とともに皇太子・敦良親王(のち後一条天皇)の東宮学士を、寛仁2年(1018年)には式部少輔を兼ねた。寛仁3年(1019年)右少弁に遷ると、翌寛仁4年(1020年)左少弁兼文章博士となり、万寿2年(1025年)ごろまで弁官を務め、治安元年(1021年)正五位下に叙せられている。 その後、敦良親王(のち後朱雀天皇)・親仁親王(のち後冷泉天皇)の東宮学士や大学頭を務める一方で、阿波守・大和守などの地方官も兼ね、位階は正四位下に至った。また、後朱雀朝の長暦2年(1038年)右中弁として弁官に復任すると、翌長暦3年(1039年)権左中弁に昇任し、以降は卒去まで弁官を務めている。 儒学者として侍読の任に当たる一方、和歌にも秀で多くの歌合に出詠者・判者として参加した。後一条・後朱雀両帝の大嘗会和歌作者。万寿2年(1025年)に「義忠家歌合」を主催。長元6年(1033年)には関白・藤原頼通が自邸で催した子の日の宴にて、和歌序を作成して禄として御衣を与えられた[1]。長久2年(1041年)「弘徽殿女御十番歌合」では判者を務めた。同年10月1日に吉野川で船遊びを行ったが、船が転覆する事故に遭って水死。享年58。最終官位は権左中弁正四位下兼大学頭東宮学士大和守。没後に侍読の労を顕彰され、参議従三位を追贈された。 人物長元6年(1033年)ごろに鷹司殿(源倫子)の70歳を祝して、漢詩が書かれた色紙形が付いた屏風を作ることになり、民部卿・藤原斉信が詩文に優れた博士に漢詩を作らせて色紙形に書くべき詩を選定した[2]。ここで文章博士・藤原資業の漢詩が多く採用されたことから、義忠は関白・藤原頼通に対して資業の漢詩を難じたという逸話がある[3]。 漢詩作品は『本朝続文粋』に、和歌作品は『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に4首が採録されている[4]。 官歴
系譜『尊卑分脈』による。 同じく歌人として知られる大和宣旨が、藤原道雅と離別後に義忠の室となった。なお、女房名は義忠の官職である大和守に因んでいる。 脚注参考文献 |
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