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この項目では、平安時代中期の公卿について説明しています。
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藤原 経通(ふじわら の つねみち)は、平安時代中期の公卿。権中納言・藤原懐平の長男。土御門帥と号す。
経歴
一条朝前期の永祚2年(990年)従五位下に叙爵。侍従を経て、長徳4年(998年)右兵衛権佐、長保3年(1001年)従五位上・右近衛少将に叙任されるなど、若年時は武官を歴任する。
寛弘2年(1005年)正五位下・右中弁に叙任されると、寛弘4年(1007年)従四位下、寛弘6年(1009年)権左中弁、寛弘8年(1011年)従四位上、寛弘9年(1012年)左中弁、長和2年(1013年)正四位下と一条朝後半から三条朝にかけて弁官を務めながら順調に昇進する。また、小野宮流出身でありながら、中宮権亮(中宮は藤原彰子)や春宮亮(春宮は敦成親王)なども兼ね、執政の左大臣・藤原道長の近親に仕えた。
長和5年(1016年)敦成親王の践祚(後一条天皇)後まもなく、経通は蔵人頭(頭弁)に任ぜられる。頭を足かけ4年務め、寛仁3年(1019年)参議に任ぜられ公卿に列すが、弁官を解かれて左京大夫のみを兼ねた。翌寛仁4年(1020年)正月に従三位、11月に正三位と続けて昇叙され、のち議政官として治部卿・兵衛督・検非違使別当を兼帯したほか、大皇太后宮権大夫として再び藤原彰子にも仕えている。
長元2年(1029年)権中納言に昇進すると、のち衛門督を兼ねる。長元7年(1034年)従二位、長暦元年(1037年)正二位といずれも天皇の上東門院への行幸に際して昇叙を受けており、女院となった藤原彰子に院司として仕えていた様子が窺われる。後冷泉朝初頭の寛徳3年(1046年)大宰権帥を兼ねて九州へ下向し、永承5年(1050年)までこれを務めた。
永承6年(1051年)8月16日薨去。享年70。最終官位は権中納言正二位兼治部卿。
官歴
『公卿補任』による。
系譜
脚注
参考文献