藤原為盛
藤原 為盛(ふじわら の ためもり)は、平安時代中期の貴族。藤原北家山蔭流、参議・藤原安親の子。官位は従四位下・越前守。 経歴一条朝の寛弘2年(1005年)左大臣・藤原道長に馬を2匹献上している[1]。六位蔵人を経て、寛弘8年(1011年)までに巡爵により従五位下に叙せられる。長和元年(1012年)藤原実頼忌日には五位として入礼[2]。長和2年(1013年)以前に加賀守を務めていた。 その後、三条朝から後一条朝前半にかけて長く散位となる。長元元年(1028年)になって越前守に任ぜられるが、任符を紛失する事件を起こしている[3]。長元2年(1029年)閏2月に越前守が既に卒去したとの記事があり(『小右記』)、この頃没したか。 逸話為盛が越前守在任中に、本来、六衛府の下級役人に支給すべき大粮米を納めなかったため、下級役人をはじめ、その召使までもが大挙して為盛の屋敷へ押しかけた。そこで為盛は7,8時間もの間、役人たちを天幕の中でうだらせてから屋敷内に呼び入れると、暑い中長時間待たされて喉がカラカラに渇いているところへ、すももや塩辛い魚などを肴に出して空きっ腹に十分食べさせた上、(下剤の作用がある)朝顔の種を濃く擂り入れた酸っぱい濁り酒を出して飲ませた。たちまち役人は腹を下して、そこらじゅうへ糞を垂れ流しながら逃げ去ってしまい、これに懲りて為盛の屋敷へ押しかけることはなくなった。このように、為盛は奇抜な工夫をすることにかけては大変な名人であった(『今昔物語集』)[4]。 官歴
系譜伊達氏ら有力武家がその末裔と称した。歌人の加賀少納言も為盛の娘とする説がある[要出典]。 脚注参考文献 |