藤原兼長
藤原 兼長(ふじわら の かねなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の次男[1]。官位は正二位・権中納言、右近衛大将。 経歴幼名を父・頼長と同じく菖蒲若と称す。天養二年(1145年)、彼は頼長から「忠経」という名前を与えられましたが、祖父·忠実から強い反対を受けました。忠実は「忠経」が朝敵の平忠常の「忠常」と同音(二つの名前はどちらもただつねと読む)であることから不吉だと考えた。この理由に対して忠実は、「お前は経史を通じている者なのに、まさか本朝の反逆者の名前を知らないのか。嗚呼、これこそがいわゆる智謀を使うことが、目を使うようなもので、毫毛を見分けることはできても、自分の睫毛すら見抜けないということだ」と頼長に言った。翌日、頼長は「兼長」「基実」「良通」の三つの名前のどれがより吉であるかを尋ねるため、清原信俊(清原定俊の子、時は明経博士)、中原師安(中原師遠の子、時は大外記)、三条実行(藤原公実の子、時は権大納言)の三人に意見を求めた。三人は皆「兼長」が吉であると答えた。その後、頼長は父・忠実にも同じ質問をし、同様の回答を得たため、忠経は「兼長」と改名された[2]。 当時、父・頼長は、その兄忠通から摂関家の家督を将来的に相続すべき立場にあった。その流れの中で頼長の嫡男たる兼長の官途も順調であり、久安4年(1148年)には11歳にして五位中将に進んでいる。また伯父である忠通の猶子[3]ともなり、同年忠通の近衛邸で元服を果たしている。 しかし、康治2年(1143年)に実子・基実を得ていた忠通は、内心では頼長流への家督移譲に対して消極的であり、やがて忠実・頼長と対立してゆく。したがってこれ以降の兼長の昇進は忠通の関与するところではなく、むしろ忠通に代わって久安6年(1150年)に藤氏長者となって実権を握った頼長の威光によるものであった。仁平3年(1153年)には正二位権中納言に達し、翌仁平4年(1154年)には右近衛大将を兼任。この年、春日祭上卿を勤め、多くの殿上人や源為義らの武士を含む大行列を従え、盛大に京を出立している。 頼長と忠通の対立は、皇室内部の角逐とも相まって極点に達し、遂に保元元年(1156年)の保元の乱の勃発を招くに至った。この際兼長は弟達と共に宇治に待機するが、やがて頼長の敗北・戦死という事態を受けて降伏、出雲国へと配流され政治生命を終えた。それから僅か2年の後、配所において21歳で病没している。 人物太ってはいたが容貌美しく、心ばえも穏やかであったという[4]。狛光近の指導により舞踊にも長ずるなど、上流貴族の子弟に相応しい教育を受けていた。 脚注
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