藤原公頼
藤原 公頼(ふじわら の きんより、承安2年〈1172年〉 - 建長2年〈1250年〉)は、鎌倉時代の公家。藤原北家末茂流、中納言・藤原実教の次男。官位は正二位・参議。 経歴後白河院政期の安元2年(1176年)従五位下に叙爵する。元暦元年(1184年)侍従に任官し、文治2年(1186年)丹波守を兼ねる。その後、文治3年(1187年)従五位上、建久元年(1190年)正五位下、建久4年(1193年)従四位下、建久8年(1197年)従四位上と後白河院政期末から後鳥羽院政期初頭にかけて昇進する。しかし、建久4年(1193年)侍従を、建久5年(1194年)丹波守を去ったのちは散位となっており、近衛少将を務めていた義弟(藤原実教の養子)の教成に比べて官職面では恵まれなかった。 建久9年(1198年)正四位下・皇后宮亮に叙任されると、元久元年(1204年)正月の教成に続いて、4月に公頼も従三位に叙せられて公卿に列した。承元2年(1208年)にも正月の教成に続いて、12月に公頼も正三位に昇叙されている。なお、従三位への昇進は父・実教が中納言を辞した代わり、正三位への昇進は実教が按察使を辞した代わりに実現したものであり、養子の教成に対して実子の公頼の昇進が後れを取らないように腐心する実教の様子が窺われる。 その後、教成は異父妹・宣陽門院の威光を背景に承元3年(1209年)参議、承元5年(1211年)権中納言と昇進していく一方で、公頼は承久2年(1220年)正月にようやく参議に任ぜられるが、同年12月には早くも参議を解かれてしまう。その後は、長く前参議のまま議政官に復帰することはなかったが、貞応元年(1222年)従二位に叙せられ、嘉禎3年(1237年)正二位に至った。 建長2年(1250年)11月24日薨去。享年79。最終官位は前参議正二位。 官歴『公卿補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。 参考文献 |