華東野戦軍華東野戦軍(かとう-やせんぐん)とは中国共産党が国共内戦中に東部で編成した方面軍・軍集団級の部隊。山東野戦軍と華中野戦軍を前身とし、華東軍区を管轄した。後に中国人民解放軍第3野戦軍に発展した。 成立1947年冬、山東軍区・山東野戦軍と華中軍区・華中野戦軍が廃止され、華東軍区と華東野戦軍が編成された。 指揮官編制軍事行政単位としての華東軍区は、魯南、魯中、膠東、渤海、蘇北、蘇中の6個軍区と濱海分区、東江縦隊を管轄した。総員36万6千人。 華東野戦軍の編成時点での編制は、以下の通り。
この外、旧華中野戦軍第7縦隊が第11縦隊に改編され、蘇中軍区(第31、第32旅と3個軍分区を管轄。司令員管文蔚、政治委員吉洛)を兼務した。第10縦隊と蘇北軍区の一部から第12縦隊が編制され、蘇北軍区(第34、第35旅と3個軍分区を管轄。司令員陳慶先、政治委員曹荻秋)を兼務した。 編成完結後、華東野戦軍は、約27万5万千人(第11、第12縦隊を除く)を数えた。 内線・外線兵団と初期の活動1947年3月、蔣介石は24個師団、60個旅団、約45万人を動員して、山東解放区に進攻した。4月下旬、華東野戦軍は、泰安で敵第72師を撃滅した後、蒙陰、新泰、萊蕪以東地区に転移した。7月末、孟良崮及び南麻、臨朐等の戦役を行い、約8万人の敵軍を撃滅した。特に孟良崮戦役では、国民党軍精鋭の第74師、3万2千人を撃滅した。 1947年8月、党中央の戦略方針に従い、第1、第3、第4、第6、第8、第10縦隊及び特種兵縦隊を以って外線兵団(陳毅と粟裕が指揮)が編成され、外線作戦を担当した。第2、第7、第9縦隊と新編の第13縦隊からは、内線兵団(許世友と譚震林が指揮)が編成され、山東の内線作戦を担当した。第11、第12縦隊と各軍区部隊は、敵後方で活動しつつ、外線及び内線兵団の作戦に協力した。 9月初め、蔣介石は、20個旅団を動員して膠東解放区に進攻した。華東野戦軍内線兵団は、敵軍を誘引しつつ、外線兵団の作戦に呼応した。4個縦隊を集中し、軍区部隊の協力の下、5ヶ月間に渡り作戦を行い、約6万3千人の敵軍を撃滅し、膠東から敵を駆逐した。 9月下旬、華東野戦軍外線兵団は、第10縦隊を魯西南に残置して、主力を5路に分けて徐州と開封の間で隴海路を横断し、豫皖蘇地区に南下した。12月下旬、豫皖蘇に進軍し、陳謝兵団と共に隴海路と平漢で約7万人の敵軍を撃滅した。劉鄧と陳謝兵団は、中原解放区を拡大すると同時に、国民党軍約90個旅団を引き付け、他戦線に対する圧力を軽減させた。 再編とその後の活動1948年1月~3月、華東軍区と華東野戦軍は、以下のような兵団編制に再編された。この時、華東野戦軍は約36万人を数えた(軍区は約38万人)。
1948年5月上旬、中央軍事委員会は、陳毅を中原局第二書記と中原軍区第一副司令員に任命した(華東野戦軍司令員と政治委員を兼務)。5月21日、中央軍事委員会は、粟裕に華東野戦軍指揮の全権を付与した。6月~7月、華東野戦軍第1、第3、第4、第6、第8、第10縦隊、両広縦隊(旧東江縦隊)と中原野戦軍第9、第11縦隊は、粟裕の統一指揮の下、豫東戦役を発動し、約9万人の敵軍を撃滅した。 8月、山東兵団は、膠済路西段(周村、張荘)、膠済路中段(濰県)、津浦路中段(兗州)等の戦役を連続して行い、約14万人の敵軍を撃滅した。同時に、陳唐兵団は、中原野戦軍陳謝兵団と共に洛陽を解放し、約2万人の敵軍を撃滅した。蘇北兵団は、前後して益林、塩(城)南、隴海路東段、衆興と連水等の戦役・戦闘を行い、約2万人の敵軍を撃滅した。 1948年秋、華東野戦軍主力は、中原野戦軍の第9、第11縦隊と一部軍区部隊と協同で、済南戦役を発動し、約10万人の敵を撃滅し、国民党軍第二綏靖区司令王耀武を捕虜にし、青島等少数の都市を除き、山東省を解放した。同年11月上旬、華東と中原の両野戦軍は、一部軍区部隊と協同で淮海戦役を進行し、約55万5千人の敵軍を撃滅し、長江以北を解放した。 消滅1949年2月、中央軍事委員会の命令により、華東野戦軍は、中国人民解放軍第3野戦軍に改称された。 関連項目 |