菊池武臣菊池 武臣(きくち たけおみ、1850年11月27日(嘉永3年10月24日[1])- 1919年(大正8年)11月28日[1][2])は、幕末の武士、明治期の政治家・華族。貴族院男爵議員。旧姓・米良[1]。旧名・十郎、又十郎、亀之助、則之[1][3]。 生涯肥後国球磨郡米良小川(現在の宮崎県西米良村小川)[注 1]で、米良領主[注 2]・米良則忠(菊池則忠)の長男として生まれる[1][3][4]。父と共に明治維新に際して京都で尊王攘夷派として活動した[3][4]。1879年(明治12年)2月10日、家督を継承[1][3]。先祖菊池氏の南朝への忠節と維新の功により、1883年(明治16年)8月、華族に列せられ、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][3][5]。 1877年以降、大蔵省紙幣局御雇、警視庁警部などを務めた[2][3]。1890年(明治23年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[2]、2期在任して1904年(明治37年)6月1日に辞職した[2][6]。 晩年、熊本県菊池郡隈府町(現菊池市)に移り、同地で病のため死去した[4]。 親族脚注注釈出典参考文献
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