菅村太事
菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年12月25日[1])- 1934年(昭和9年)3月6日[2][3])は、明治から昭和初期の日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県田村郡美山村長。旧姓・佐久間。 経歴陸奥国田村郡北鹿又村[4](福島県[2]田村郡美山村[3][5]大字北鹿又村[6]、船引町を経て現田村市船引町北鹿又)で、鹿股神社神職、農業・菅村嗣江の8人兄妹の第3子として生まれる[6][注釈 1]。父は国学者で佐久間姓を明治維新後に鹿股神社の祭神・船大明神にちなんで菅村に改姓した[6]。 自由民権運動に加わり田村郡の青年壮士として活動した[4][6]。1882年(明治15年)11月、会津地方の応援に10人ほどの青年と駆け付けたが、同月29日、耶麻郡新合村(現喜多方市熊倉町新合)の会津自由党本部で逮捕され、2ヶ月間若松監獄に収容され、1883年(明治16年)2月、国事犯、凶徒聚衆教唆者として東京に護送されたが、同年4月13日に免訴釈放となった[4][6]。1884(明治17年)福島に移り『福島民報』の創刊に尽力した[4][6]。 1886年(明治19年)に帰郷し、北鹿又村副総理に就任[4][6]。1889年(明治22年)家督を相続し農業を営む[2][5][7]。美山村会議員に2期在任し[2][3][6]、1896年(明治29年)美山村長となり3期務めた[2][3][4][6]。その他、田村郡会議員、同参事会員にも在任[2][3]。常葉産馬組合長に就任し[2][3][7]、馬産の振興に尽力した[4][6]。1903年(明治36年)福島県会議員に選出され連続4期在任し、同参事会員、第22代同議長も務めた[2][3][4][5][6][7][8]。(議長は1915年(大正4年)10月から1917年(大正6年)4月まで務めた[8]。) 河野広中が死去すると後継者として[4][5][6]、1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙(福島県第5区、憲政会公認)で当選し[9]、その後、第17回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[2][3][4][6]。 1934年(昭和9年)福島市万世町に移り[4][6]、同地で没した[4][6]。 国政選挙歴
脚注注釈
出典
参考文献
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