茨木惟昭
茨木 惟昭(いばらき これあき、1849年10月24日(嘉永2年9月9日[1][2]) - 1914年(大正3年)7月14日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。幼名は守之助。 経歴紀州藩士・茨木藤助の長男として生まれる[1]。1871年(明治4年)、陸軍大尉に任官[1][3]。以後、歩兵第10番大隊取締、大阪鎮台歩兵第10番大隊長を経て、1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征[1]。1877年3月から10月にかけて歩兵第10連隊長として西南戦争に出征し奮戦した[1][3]。 歩兵第14連隊長、大阪鎮台参謀長、参謀本部副官、近衛参謀長、陸軍戸山学校長などを歴任し、1890年6月、陸軍少将に進級[1][3]。 日清戦争には歩兵第11旅団長として、1895年1月から12月にかけて出征した[1][2]。戦後、第2軍司令部付として金州行政長官、さらに占領地総督府民政部長、同総督府参謀長兼民政部長を務めた[1][2][3]。歩兵第8旅団長を経て、1896年10月、陸軍中将となった<[1][2][3]。第6師団長を務め、1900年4月、予備役に編入[1][2][3]。 日露戦争勃発に伴い召集を受け、1904年3月、留守第4師団長を1906年2月の召集解除まで務めた[1][2][3]。1911年4月1日に後備役となる[4]。 1895年8月、男爵の爵位を授爵し華族となる[1]。1905年(明治38年)12月15日、補欠選挙で貴族院男爵議員で選出され[5]、1911年(明治44年)7月9日までに在任した[1][6]。 栄典
脚注
参考文献
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