茂呂何丸茂呂 何丸(もろ なにまる、宝暦11年(1761年) - 天保8年(1837年))は、江戸時代後期の俳人・俳諧学者。小沢何丸ともいう。名は一元、通称・治郎右衛門、別名に古連、漁村、月院社がある。 生涯信濃国水内郡吉田村北本町(現在の長野県長野市吉田3丁目)に小沢治郎右衛門の長男として生まれる。青年時代は書画を愛し、江戸・京都・大坂を往来し、古書画の売買を生業としていた[1]。 寛政4年(1792年)、32歳ころから俳諧の仲間入りをし、享和2年(1802年)、42歳で重病を患い、剃髪して「何丸」と名を改めた。文政2年(1819年)に江戸に出て、蔵前の札差・中村抱義の知遇を受け、俳諧宗匠として立つ。 自ら句を詠みながら、松尾芭蕉の研究でも知られ、芭蕉七部集注釈事業に取り組み、『七部集大鏡』(全8巻・18年に及ぶ労作)[2]や『芭蕉翁句解参考』を著している。 これにより、文政7年(1824年)、京都二条家(和歌の家元)から「俳諧奉行職御代官」に命じられた。そのお墨付きを受領するために上京した際の紀行文が、『花の手婦利』である。同年3月8日、門弟や子息を伴い、窓付きのかごに乗って江戸の浅草を出発。道々俳句をひねりながらの贅沢な旅路であった。中山道から木曽路を経て、東海道を通ってたっぷり22日かけて京都に着いている。帰りは琵琶湖を船で渡り、北陸街道経由で高田へ。北国街道を上って善光寺。故郷に錦を飾る句会を催し、菅平を越える大笹街道沿いに草津や伊香保の温泉を楽しみながら、6月4日江戸に戻った[2]。 十返舎一九の狂歌に「儒は太宰、相撲雷電、武士真田、そばに月見に、一茶何丸」というものがあり、この時代、小林一茶と共に信濃を代表する俳人だったことがわかる[3]。 天保8年(1837年)10月26日、77歳で死去。
その他
脚注
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