英国策論英国策論(えいこく さくろん)[1]とは、アーネスト・サトウが1866年に無題・無署名でジャパン・タイムスに寄稿した3つの記事を和訳したものである[2]。「英国策論」と名付けられ、広く読まれた。イギリスの対日政策を示すものとみなされ、明治維新に大きな影響を与えた。 内容『英国策論』の骨子は以下の通り。
成立過程サトウの自著『一外交官の見た明治維新』によると、サトウはジャパン・タイムスを発行していた英国人チャールズ・リッカビー(Charles Rickerby)と知り合いになり、当初紀行文などを投稿していた。ところが、ある日薩摩藩の船が横浜での交易を拒否される事件があった(各大名は外国人と自由に交易できるということは条約に定められている)。これをきっかけに、政治的な文章を投稿しようと思ったと述べている。 英国策論の基となる英文は、ジャパン・タイムスに3回に分けて掲載されており、最初が1866年の3月16日、3回目が5月19日で、2回目は5月4日ではないかとされているが、発見されていない。この論文を発表した時点で、サトウはまだ22歳であった。 なお、内容に関しては、英国留学中の薩摩藩士松木弘安が外務大臣の第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリアーズに提出したものとの類似性が指摘されている[3]。 サトウは「この文章を蜂須賀斉裕(徳島藩主)の家臣である沼田寅三郎という、いくらか英語を知っている私の教師に手伝ってもらって、これを日本語に翻訳し、パンフレットの形で沼田の藩主の精読に供したところ、それが写本されて方々へ広まった。翌年、私が会った諸大名の家臣たちは、私のことをその写本を通じて知っており、好意を寄せてくれた。しまいには、その日本文が英人サトウの『英国策論』、すなわちイギリスの政策という表題で印刷され、 大坂や京都の全ての書店で発売されることになった。これは、勤皇、佐幕の両党からイギリス公使館の意見を代表するものと思われた。そんなことは私の知ったことではなかった。」と述べている。 実際、西郷隆盛らは、それが英国の公式な政策であるかのごとく語っていたと言われている。 ジャパンタイムスへの投稿は匿名であり、英国公使ハリー・パークスはその存在すら知らなかったようだとサトウは述べている。現時点までに、パークスの公的文書から英国策論に関する記述は確認されていないが[4]、実際にはパークスは英国策論の存在を知っていたと考えられる[5]。当時英国政府は日本の内政に干渉することを固く禁じていたため、倒幕をも示唆するような英国策論はその外交政策に大きく反する。パークスが特別な手段を講じていない理由としては、江戸幕府に肩入れするフランスへの牽制としてあえて否定をしなかった、あるいは単にサトウを叱責すると辞職してしまう可能性があった、などがあげられている。 関税率交渉との関係修好通商条約(安政の五か国条約)で定められた関税率は約20%と高率だったため、この引き下げを狙った欧米各国(とりわけイギリス・フランス)の要求により関税交渉が開始されていた。 英国策論の掲載と同じ年に、1866年6月25日(慶應2年5月13日)に改税約書が調印、7月1日(同年5月19日)より実施された。本協定により、輸出入品の大部分はそれまでの従価税方式から従量税方式に改められ、従量税の税率はその当時の従価5%を基準とした[6]。 税関に関する主な経緯は次のとおり。
脚注
参考文献
外部リンクウィキソースには、英国策論の原文があります。
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