若林忠一若林 忠一(わかばやし ちゅういち、1903年(明治36年)4月1日[1][2] - 1977年(昭和52年)5月28日[2])は、日本の農民運動家、政治家。長野県更埴市長。 経歴長野県埴科郡屋代町[1][3](現千曲市)生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)を中退し[3]、独学で法政大学経済学部に進学し[3]、在学中から社会主義運動に参加し[3]、1924年(大正13年)中途退学して帰郷。 更級・埴科地方の自作・小作農民層の青年らを集めて「北信社会思想研究会」を立ち上げ、これに教員らが参加して、1925年(大正14年)政治研究会長野県評議会を組織し、幹事長となる。1926年(大正15年)労働農民党(労農党)に入党。1927年(昭和2年)屋代町に長野県小作組合連合会(日本農民組合長野県連合会)を組織し、その中心人物として県下の農民運動を主導した[3]。1928年同党中央執行委員となるが、同年の三・一五事件で検挙された。1929年政獲同盟長野県支部の結成に参加し、労農党長野県連合会を結成し書記長となる。1930年全日本農民組合同盟(全農)全国会議常任全国委員として、各地の小作争議を指導した。1933年の二・四事件を契機に運動から離脱し[3]、旧満州に渡り大連新聞社記者、満州日日新聞論説委員などを歴任する[1]。 戦後は、林虎雄知事のもとで長野県農地委員会会長代理、同全国協議会副会長、都市計画長野地方審議会委員などを務めた。1949年(昭和24年)日本社会党長野県連合会副委員長、1953年(昭和28年)同県連書記長、中央委員となる。また1950年(昭和25年)日本農民組合(日農)長野県連委員長、1951年(昭和26年)同中央本部常任執行委員などを歴任した。1963年(昭和38年)7月、更埴市長に当選し1967年(昭和42年)7月まで1期在任[1]。のち長野県議会議員。1975年(昭和50年)身障者施設「稲荷山太陽の園」初代園長となる。 著作
脚注参考文献 |