花房銀子
花房 銀子(はなぶさ ぎんこ、1915年6月29日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4]。本名藤井 マツ子(ふじい まつこ)。 人物・来歴1915年(大正4年)6月29日、山口県に生まれる[1][2]。 大阪に移り、大阪市立大阪高等女学校(現在の大阪府立大手前高等学校)に進学するも、同校を中途退学し、京都の大丸の煙草売場に勤務していたところ、1932年(昭和7年)、当時、新興キネマ専務取締役の職にあった立花良介に見いだされ、同社に入社する[1][2]。同年6月4日に公開された清涼卓明監督の『草笛を吹きつゝ』、同年6月30日に公開された高見貞衛監督の『大空に描く』に「花房 銀子」の名でつづけて出演し、満16歳で映画界にデビューした[1][3]。当時の『日本映画俳優名鑑』の記述によれば、満19歳のころの花房は「身長五尺ニ寸、體重十二貫八百匁」とあり、これは「身長157.6センチメートル、体重48キログラム」にあたる[2]。時代劇の剣戟映画、現代劇にと出演し、1933年(昭和8年)3月13日に公開された川手二郎監督の『時雨ひととき』、同年6月22日に公開された渡辺新太郎監督の『十二階下の少年達』等に主演した[1][2][3]。 1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、花房は設立と同時に入社、同年に公開された根岸東一郎監督の『無鉄砲選手』等に出演した[3]。1936年(昭和11年)、加賀まりこの父、加賀四郎の加賀ブラザースプロダクションが製作した鈴木傳明監督の『鋪道の囁き』に出演しているが、同作は当時は公開されず、第二次世界大戦終了直後の1946年(昭和21年)6月27日に『思い出の東京』と改題されて公開されている[5]。大戦中の1942年(昭和17年)に製作・公開された長尾史録監督の『大いなる行進』以降、出演記録が見当たらない[3][4]。その後の消息は不明である。没年不詳。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 新興キネマ特筆以外すべて製作・配給は「新興キネマ」である[3][4]。1935年(昭和10年)に現代劇部門を「新興キネマ東京撮影所」に分離して以降、京都の生産拠点を「新興キネマ京都撮影所」と改称した[3][4]。
マキノトーキー製作所特筆以外すべて製作は「マキノトーキー製作所」、配給は「千鳥興行」である[3][4]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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