舟越保武舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する具象彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされ[1]、日本でまだ石彫が珍しかった時代に、大理石や砂岩を使った作品に取り組み、独自のスタイルを築いた[2]。 画家・俳人の妻道子との間に子供6人[注 1]。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。長女の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者[3]。四女の舟越カンナはアーティスト・絵本作家。 生涯1912年、岩手県二戸郡一戸町[1]小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった[4]。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中[1]、(同期に松本俊介[1])に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す[4]。 1939年、東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業[5]。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友情を培うことになり、共に戦後の日本彫刻界を牽引していく。同年、新制作派協会彫刻部創立に参加して会員となる[5]。この頃から大理石彫刻を始める[5]。1940年、盛岡に疎開。深沢省三・深沢紅子夫妻と共に岩手県美術研究所で後輩の指導にもあたった。1950年、第14回新制作派展出品作「アザレア」は文部省買い上げとなった[5]。同年、長男・一馬が生まれて間もなく急死したのを機に(一馬が急死した際、保武はその遺体を「一馬昇天」の題でパステルで描いている)、家族全員で洗礼を受けてカトリックに帰依[5]。キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。1967年から東京芸術大学教授を務め[5]、1980年定年退官[5]。1981年多摩美術大学教授に就任[5]、1983年定年退官[5]。1986年東京芸術大学名誉教授[5]。1987年、脳梗塞で倒れ[5]、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始し、死の直前まで左手で創作を続けた[5]。1999年文化功労者[5]。2002年2月5日、多臓器不全で死去[5]。享年89歳。墓所は府中市府中カトリック墓地。 主な作品と受賞歴
ほかにも「聖クララ」、「聖セシリア」、「聖マリア・マグダレナ」、「たつ子像」(田沢湖畔に設置)[5]、「ペトロ岐部神父の立像」などがある。 主な彫刻作品の設置場所
著作・作品集
関連書籍
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia