脇坂安親
脇坂 安親(わきさか やすちか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。播磨国龍野藩7代藩主。龍野藩脇坂家9代。官位は従五位下・淡路守、図書頭。 生涯元文3年(1738年)12月19日、近江国宮川藩3代藩主・堀田正陳の四男として誕生した。 龍野藩3代藩主・脇坂安清の弟・安利は、宝永7年(1710年)に2000石を分与されて旗本となっていたが、その長男である安種には嗣子がなかった。このため寛延2年(1749年)2月29日、安親が養子となって2000石の家督を継いだ。脇坂家は安利の祖父にあたる安政が堀田家から養子入りしており、正陳の曾祖父の堀田正信は安政の兄であった。家督相続後は小普請に所属した。 宝暦9年(1759年)に本家の6代藩主・脇坂安実が早世する。安実にも嗣子がなかったため、同年7月27日に安親が養子となりその家督を継いだ。なお、旗本としての脇坂家は廃家となる。9月1日、9代将軍・徳川家重に御目見した。12月7日、従五位下・淡路守に叙位・任官する。幕命により、追手組防火職・桜田防火職・江戸城桜田門番・勅使や朝鮮通信使、大納言などの接待役などを務めた。天明4年(1784年)4月13日、次男の安董に家督を譲って隠居する。隠居後は図書頭を称した。 文化7年(1810年)5月14日、江戸で死去した。享年73。 系譜脚注 |