胡善祥
胡 善祥(こ ぜんしょう)は、明の宣徳帝の最初の皇后。恭譲皇后(きょうじょうこうごう)と諡された。 経歴済寧府の人。胡栄の三女。母は劉氏[1]。洪武帝の時期、長姉の胡善圍が尚宮(女官)に任じられ、胡栄が正六品錦衣衛百戸となった。建文帝が即位すると、胡栄は免職された。 永楽15年(1417年)、胡善祥は永楽帝に召されて皇太孫朱瞻基(後の宣徳帝)の妃(正室)となった。朱瞻基は孫氏を寵愛して胡善祥をあまり寵愛しなかった。洪熙帝が即位すると皇太子妃に立てられ、宣徳帝が即位すると皇后に立てられた。胡栄は正二品錦衣衛指揮僉事に任じられた。 宣徳3年(1428年)、貴妃孫氏が男子の朱祁鎮(後の英宗)を産んだ。胡善祥は病の上に男子がないという理由で廃され、清寧宮に移された。そして、皇后の礼で遇されたが、道士にさせられた。法号は「静慈仙師」。代わって孫氏が皇后に立てられた。姑の張太后は胡氏を憐れんで、清寧宮の自身の居所へいつも招いた。 英宗の正統6年(1441年)4月、胡栄が死去した[2]。翌正統7年(1442年)、張太后が崩じた。その葬儀で胡善祥は、妃嬪と共に配列された。さらに正統8年(1443年)、娘の順徳長公主も子供をもうけずに薨じた。胡善祥はその後まもなく亡くなった。 没後、嬪の礼で金山に葬られた。英宗の天順年間に恭譲誠順康穆静慈章皇后の諡が贈られ、皇后の礼で改葬された。 子女
伝記資料
脚注 |