張皇后 (嘉靖帝)

張皇后
の皇后
在位 嘉靖7年11月28日[1] - 嘉靖13年1月6日
1529年1月8日 - 1534年1月19日

全名 張七姐
出生 1500年代?
衛輝府新郷県
死去 嘉靖15年12月3日
1537年1月14日
順天府
埋葬 金山
配偶者 嘉靖帝
父親 張楫
母親 薛氏
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継后張氏(けいこう ちょうし)は、嘉靖帝の廃后。名は七姐(しちしゃ)[2]

経歴

衛輝府新郷県の人。生員の張楫と妻の薛氏のあいだの娘として生まれる。礼儀を重んじる聡明な女性だった。嘉靖元年(1522年)、陳氏(後に皇后となった)と文氏(後に恭妃となった)と共に、選抜されて後宮に入り、順妃となった。父の張楫は正四品錦衣衛帯俸指揮僉事に任じられた。

嘉靖7年(1528年)10月、陳皇后が嫉妬するように流産して崩ずると、翌月に嘉靖帝の母の蒋太后中国語版の薦めで張七姐は代わって皇后に立てられた。その後は嘉靖帝の意向に従い、後宮の妃たちを率いて「女訓」を学び、内向的で慎ましやかな振る舞いで皇帝に仕えた。しかし皇帝との仲はうまくゆかず、嘉靖13年(1534年)正月6日、張七姐は嘉靖帝の怒りを買って鞭打ちの罰を与えられた上に、皇后の地位を廃位され、冷宮(らんごん)に追いやられた[3]

嘉靖15年閏12月3日(1537年1月14日)、薨去した。幽閉生活中に次第に健康を害し、精神的にも追い詰められ、ついには誰にも看取られることなく息を引き取ったとされる[3]。享年は不明だが、30代と考えられている[4]。没後、葬儀は恭譲皇后胡善祥(宣徳帝の廃后)の格式で執り行われ、単に継后と称されるのみで諡号もつけられていない。金山に葬られた。

脚注

  1. ^ 『明世宗実録』巻95, 嘉靖七年十一月丙寅条による。
  2. ^ 『皇時貴戚錦衣衛指揮僉事張楫六代宗親世次記』:叔祖張沢娶李氏、生叔父張楫、少游泮水、卒未穫棘聞之志。娶薛氏、生女諱七姐。聖徳不群、及長而愈令者多矣、値嘉靖改元、継而被選、冊封爲順妃、戊子冬正宮。
  3. ^ a b 【明朝の冷血皇帝】 3人の美しい皇后が辿った悲劇的な最後”. 草の実堂 (2024年11月10日). 2024年11月11日閲覧。
  4. ^ 明の后妃の選抜では、年齢は14歳から18歳までが最も好ましいとされた。

伝記資料

  • 『明世宗実録』
  • 『宛署雑記』