育徳帝(いくとくてい、ズクドゥックてい、Dục Đức、1852年2月23日(嗣徳5年2月4日) - 1884年10月24日(建福元年9月6日))は、諱は阮福膺𩡤[1](Nguyễn Phúc Ưng Ái)、後に阮福膺禛(Nguyễn Phúc Ưng Chân)と改めた。嗣徳帝の弟である建瑞公阮福洪依(Nguyễn Phúc Hồng Y)の子。
嗣徳帝には子がなく、3人の甥を養子にしていたが、育徳帝はその中で最年長であった。嗣徳帝は育徳帝の言動に不満を持ち、後継者候補から外そうとしたことがあったが、母の慈裕皇太后范氏姮(ベトナム語版、中国語版)に反対された。1883年7月19日、嗣徳帝が崩御、やむを得ず遺詔で育徳帝を後継者に指名した。しかしその文中に否定的な評価があったため、遺詔を朗読するとき、育徳帝はその部分を削除することを求めた。
嗣徳帝の本来の意は最も幼いが聡明な建福帝にあったとされ、阮文祥・尊室説などの権臣もそれを望んでいたため、遺詔をないがしろにしたこと、儀式に臨んで喪服でない緑の服を着用したことなどを理由に、7月23日、慈裕太皇太后の命で後継者の地位を剥奪され、絶食させられて餓えて死ぬ(即位礼は行っていない)。強引な廃位については、廷臣のなかにも潘廷逢(ベトナム語版)のように反対する者がいたが、彼らは皆罷免・追放された。
阮朝の皇帝は元号で呼ばれるが、元号も定められなかったため、生前起居していた宮中の育徳堂にちなんで育徳帝と称されている。のちに子の成泰帝が立つと、恭宗・恵皇帝の廟号・諡号が追贈された。
脚注
参考文献
- 『大南寔録』正編第4紀巻69 翼宗英皇帝 及び巻70 附廃帝(慶應義塾大学言語文化研究所刊行影印本)
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