羽下 修三(はが しゅうぞう、1891年〈明治24年〉6月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月17日)は、日本の彫刻家。雅号は大化(たいか)、蜀獨楽(しょっこま)。
略歴
新潟県中蒲原郡川内村大字川内(現 五泉市川内)の醸造業・羽下徳八の次男として出生[1]。
1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、第一高等学校を受験するが不合格、代用教員として新潟県の小学校に勤務、1910年(明治43年)12月に一年志願兵として村松町の陸軍歩兵第30連隊に入隊[2][3]、1915年(大正4年)に結婚[4]。
1916年(大正5年)4月に東京美術学校彫刻科木彫部に入学[注 1][注 2]、高村光雲、白井雨山、大村西崖に学び、卒業して研究生になってからは北村西望、朝倉文夫、関野聖雲にも学んだ[2][7][8][9][10][11]。
1921年(大正10年)3月に東京美術学校彫刻科木彫部を卒業[注 3]、同年10月の第3回帝展で『光明へ』が初入選[2][7][9][10][13][14][15][16][17][18]、1926年(大正15年)7月の第3回白日会展で『菩薩』により最高賞である白日賞を受賞[19]。
1927年(昭和2年)2月に東京美術学校彫刻科木彫部講師に就任[2][3][13][20][21]。
1929年(昭和4年)10月の第10回帝展で『春を萠ゆる』が特選[2][3][7][9][13][14][15][16][22]、1930年(昭和5年)10月の第11回帝展で『爛漫』が特選、1933年(昭和8年)5月に帝国美術院から永久無鑑査に推薦された[2][3][13][14][16][22]。
1936年(昭和11年)6月に東京美術学校彫刻科木彫部助教授に就任[2][3][13][14][16][20][23]。
1944年(昭和19年)5月に文部省により東京美術学校の改革が行われ、北村西望、朝倉文夫、関野聖雲らと共に辞職、1945年(昭和20年)4月に新潟県中蒲原郡五泉町大字三本木(現 五泉市三本木)の妻の実家に疎開[2][8][10][13][20][24][25]。
1952年(昭和27年)6月に新潟大学教育学部非常勤講師に就任[注 4]。
新潟県文化祭美術展(1959年〈昭和34年〉から新潟県美術展覧会〈県展〉)の審査員や新潟県文化財調査審議委員などを務め、後進の指導育成や郷土文化の振興発展に尽力した[2][8][9][14][15][16][20][27][28][29][30][31][32]。
1972年(昭和47年)5月に新潟県東蒲原郡三川村(現 阿賀町)の平等寺の住職から制作を依頼された『薬師如来像』を1975年(昭和50年)5月16日に完成させたが、翌5月17日午前7時に五泉市三本木の自宅で脳溢血のため死去[2][33][34][注 5]、83歳没。葬儀・告別式は5月20日に五泉市錦町の興泉寺で執り行われた。戒名は彫心院修観證三居士[36]。
1975年(昭和50年)11月に羽下修三のアトリエが羽下の墓所がある五泉市川内の永谷寺の境内に移築されて羽下修三記念館(羽下大化記念館)として一般に公開された[16][37][38][39]。
1977年(昭和52年)10月に五泉市粟島の粟島公園に羽下修三顕彰碑が建立された。顕彰碑には「梅散るや蹴合ひし鶏の別れゆく」という羽下修三の俳句が刻まれている[38][40][41]。
栄典
親族
作品
卒業制作
代表作
人物像
動物像
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『羽下修三作品集』本間敏雄[編]、本間敏雄(私家版)、1992年。
- 「羽下修三」『近代日本彫刻集成 第三巻 昭和前期編』532-533頁、迫内祐司[著]、田中修二[編]、国書刊行会、2013年。
- 「羽下修三」『美術家人名事典 建築・彫刻篇 古今の名匠1600人』379頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2011年。
- 「羽下修三」『にいがた大紀行 豊かな風土美しき新潟』253頁、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1990年。
- 「羽下修三」『新潟県大百科事典 下巻』391頁、小林理一[著]、新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
- 「羽下修三」『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1584頁、小林理一[著]、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1984年。
- 「羽下修三」『新潟県美術展覧会50回展記念 新潟県美術名鑑』76頁、新潟日報事業社[編]、新潟日報社、1995年。
- 「羽下修三」『新潟の美術 近代絵画・版画・彫刻の系譜』197頁、毎日新聞社[編]、毎日新聞社、1981年。
- 「羽下修三」『越佐と名士』536頁、坂井新三郎[著]、越佐と名士刊行会、1936年。
- 「羽下修三」『越佐名士錄』536頁、坂井新三郎[著]、越佐名士録刊行会、1942年。
- 「羽下修三」『越佐人物誌 中巻』736頁、牧田利平[編]、野島出版、1972年。
- 「羽下修三」『郷土が生んだ美の先達25人展』128頁、新潟県美術博物館[編]、新潟県美術博物館、1992年。
- 「羽下大化」『會津八一 もうひとつの世界 秋艸道人と心をかよわせた文人たち』114-117頁、皆川喜代弘[編著]、新潟日報事業社、1996年。
- 「羽下大化と小林存 その一」『高志路』第413号、1-12頁、岩野笙子[著]、新潟県民俗学会、2019年。
- 「羽下大化と小林存 その二」『高志路』第414号、19-33頁、岩野笙子[著]、新潟県民俗学会、2019年。
- 「羽下修三氏を悼む」『高志路』第237・238合併号、119頁、山口賢俊[著]、新潟県民俗学会、1975年。
- 「羽下修三作「田中絹代像」について」『おくやまのしょう』第5号、103-105頁、山浦健夫[著]、中条町郷土研究会、1980年。
- 「羽下修三氏」『新潟日報』1975年5月18日付朝刊、19面、新潟日報社、1975年。
- 「父修三儀」『新潟日報』1975年5月18日付朝刊、3面、新潟日報社、1975年。
- 「郷土の彫刻家 羽下修三氏の顕彰碑建てる 五泉文化のバックボーンに」『新潟日報』1977年10月14日付朝刊、下越版、16面、新潟日報社、1977年。
- 「羽下大化記念館 永谷寺 五泉市 彫刻家のアトリエ移築」『新潟日報』2015年10月29日付朝刊、11面、新潟日報社、2015年。
- 「田中絹代像をつくった男 五泉出身の彫刻家・羽下修三」『新潟日報』2019年4月3日付夕刊『おとなプラス』、1-3面、鈴木啓弘[著]、新潟日報社、2019年。
- 「郷土の文化財保護も努めた孤高の木彫家 羽下大化(村松町)」『郷土再発見! ふるさとの誇り100話』138-139頁、「ふるさとの誇り100話」編集事務局[編]、新潟県新津地域振興調整会議、2005年。
- 「彫人 羽下修三の芸術」『新津郷土誌』第2号、1-7頁、塩練甫[著]、新津郷土誌料研究会、1978年。
- 「彫人 羽下修三の芸術(二)」『新津郷土誌』第5号、1-10頁、塩練甫[編]、新津郷土誌料研究会、1979年。
- 「俳人 小鍛冶市猿」『越佐研究』第28集、38-63頁、中野二三郎[著]、新潟県人文研究会、1969年。
- 『小林存伝』川崎久一[著]、野島出版、1979年。
- 『新潟県史 通史編9 現代』新潟県[編]、新潟県、1988年。
- 『日本美術年鑑 1927』朝日新聞社[編]、東京朝日新聞発行所、1926年。
関連文献
- 「追悼記 (PDF) 」「彫刻家 羽下修三先生ご逝去」『青山同窓会會報』第21号、2面、林茂[著]、青山同窓会、1975年。
- 「存先生褌を落すの事」『高志路』別冊、39-41頁、羽下修三[著]、新潟県民俗学会、1961年。
- 「津川町での小林存・羽下大化・笠原軔」『高志路』第278号、6-7頁、赤城源三郎[著]、新潟県民俗学会、1985年。
- 「孤高の彫刻家 羽下大化 作品と人生」『郷土村松』第74号、1-16頁、岩野笙子[著]、村松郷土史研究会、2020年。
- 「心癒やすシンボルに 元栄養士 若井さん 保健所へ少女像寄贈」『新潟日報』2009年6月19日付朝刊、14面、新潟日報社、2009年。
- 「大女優田中絹代 県人の業績を刻んだ墓碑」「座標軸」『新潟日報』2019年4月20日付朝刊、5面、鈴木啓弘[著]、新潟日報社、2019年。
- 「核廃絶 「たゆまざる歩み」速めよ」「座標軸」『新潟日報』2020年8月8日付朝刊、4面、鈴木啓弘[著]、新潟日報社、2020年。
外部リンク