綾川武治綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月23日[1] - 1966年(昭和41年)12月7日[1][2])は、日本の国家主義者、弁護士[3]、政治家。衆議院議員。 経歴埼玉県幡羅郡長井村字善ヶ島[4](のち大里郡長井村[1]、現:熊谷市)で、小作農[5]・綾川幸太郎、せん夫妻の長男として生まれる[4][6]。江波学校(長井尋常小学校)、幡羅高等小学校を経て、1904年4月、埼玉県立熊谷中学校に入学[5]。実家の家計悪化のため、1907年3月、中学を休学して、父の職場であった磐城炭鉱 (株) 越賀炭鉱(福島県石城郡内郷村)で一年余り働き、熊谷中四年に復学し1910年3月に卒業した[7]。 無試験検定で合格し、1910年9月、第七高等学校造士館第一部甲(英法科)に入学[8]。学費は篤志家からの恩恵を受けた[9]。二年次に第一部乙(英文科)に転科し、1913年7月に卒業した[10]。同年9月、東京帝国大学文科大学哲学科に入学[11]。篤志家からの援助だけでは学費等が賄えないため、一年の内、4~6カ月を磐城炭鉱・宮鉱業所で働くことを3年間継続した[12]。松本亦太郎のもとで心理学を専修し、端艇部に所属した[13]。1916年7月、東京帝国大学文科大学を卒業したが、希望に見合う就職先がなかったため、同年9月、同大法科大学法律学科(英法兼修)に学士入学[6][14]。学費については外交時報社の社員となり自弁することができた[15]。英米法を中心に学びながら、立作太郎から国際政治学の教えを受けた[14]。1919年、興国同志会の結成に参画[16]。1920年10月、東京帝国大学法学部を卒業した[6][17]。 1920年[注 1]10月、大川周明の斡旋で南満洲鉄道東亜経済調査局に採用され[6][18]、アングロ・サクソン入植地における労働問題、人種問題について調査研究を行う[19]。また、右翼団体猶存社、行地社、国本社に加わり活動を行った[1][20]。これらの活動により1922年9月、日本大学法学部講師(1934年3月まで在任)、1923年9月、法政大学専門部講師(1932年3月まで在任)にそれぞれ就任する契機が与えられた[6][21]。 小川平吉の知遇を得て、1926年4月、満鉄を退職して日本新聞社へ移り新聞『日本』編集局長に就任[6][22]。1927年11月、日本新聞社の助成を受けて全日本興国同志会を結成[1][6][23]。1930年2月、愛国勤労党の幹部となる[6][24]。 1932年1月、第18回衆議院議員総選挙に出馬するため『日本』編集局長を辞任し、埼玉県第二区から無所属・中立で立候補したが落選[25]。そのため日本新聞社に復帰したが、同年8月に退社し、同年11月[注 2]、帝国新報社長に就任した[25]。しかし、多忙となり研究がままならなくなり、1933年12月[注 3]に社長を辞し取締役兼編集顧問に退いた[26]。 1934年2月、菱刈隆関東長官の意向を受けた塩原時三郎の斡旋で関東庁嘱託、翌月から旅順工科大学嘱託兼講師に就任した[6]。菱刈の指示を受け大陸経営史を研究し『我が大陸経営失敗の真相』を執筆[27]。その後、1935年12月に関東庁を辞職した[6]。 1936年2月、第19回総選挙で埼玉県第二区から無所属・中立で出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた[1][2][28]。その後、弁護士として活動しながら、民間の国家主義運動に参画した[29]。朝鮮総督府嘱託、北支那開発嘱託を経て、 1941年4月、大政翼賛会連絡部副部長に就任し、さらに大政翼賛会埼玉県支部事務局長、逓信院嘱託などを務めた[6]。 戦後、1946年に公職追放となり、1951年6月に解除された[30]。1948年6月、熊谷市栄町に弁護士事務所を開設し[30]、埼玉県弁護士会副会長、同県調停協会副会長を務めた[2]。また、1954年に日本革新同盟を結成するなど右翼活動を継続した[1][31]。 1966年(昭和41年)12月7日に死去。同月、その3日前に没した小沢専七郎などとともに従五位、勲四等に叙され瑞宝章を受けた[32]。 著作※『近代日本の国家主義エリート』【巻末資料・1】164-165頁。
脚注注釈出典
参考文献
|