細田直光細田 直光(ほそだ なおみつ、生年不明 - 1898年以後?〈明治30年以後?〉)は、日本の刀工、偽銘師。本名は細田平次郎であり、通称を鍛冶平と呼ばれる。幕末期に江戸を中心に活躍した刀工であった一方、名工の銘を偽造し、多くの偽銘刀を創り上げた偽銘の名人としても知られていた。 来歴鍛冶平は常陸国鹿島郡(現在の茨城県鹿嶋市)の出身であり、鹿島神宮にゆかりある名家の出身とされている[1]。刀工として江戸時代後期に活躍した次郎太郎直勝の許に入門する[1]。なお、次郎太郎直勝は江戸三作の一人である大慶直胤の娘婿かつ養子であったため、その門人である鍛冶平も大慶直胤や次郎太郎直勝の流れを汲んだ備前伝や相州伝などの作風を使いこなす高い技量を持っていた[1]。鍛冶平は江戸の湯島天神の辺りに居を構えていたが、姫路藩藩工として三十人扶持で召されるお抱え刀工としても活躍していた[2][3]。 ただ、鍛冶平は作刀よりも偽銘切りの方が上手であったとされており、繁慶は彫り銘であるため難しいが、山浦清麿などは何でもない、と豪語していたとされる[3]。また、清麿自身も鍛冶平の偽銘刀を見て「この刀は無銘でよい、という注文だったのに、いつ銘を切ったのだろう。これはしくじった。」と頭をかいていたという逸話も遺されている[3]。 特に明治維新後は、廃刀令の影響で刀工として困窮したことから、鍛冶平は生活のために偽銘切りに精を出すようになり、長曾祢虎徹をはじめ肥前忠吉や大慶直胤、水心子正秀なども偽銘を切ったといわれる[4][5]。その後は1898年(明治30年)頃までは生存していたものとみられている[2][5] 。 なお、鍛冶平は几帳面な男であったようであり、自身が切った偽銘の押形帳を遺している[3]。この押形帳を見ると相州上位物や刀剣鑑定を家業とする本阿弥家の金象嵌銘も数多く偽造したことが判る[3]。なお、これら鍛冶平の押形は1936年(昭和11年)に大阪刀剣会より『鍛冶平真偽押形』として出版されている[6]。偽銘師が自身の偽銘を押形に遺すことは稀有なことであるため、『鍛冶平真偽押形』は日本刀における偽物研究の貴重な資料の一つとなっている[4]。 作刀鍛冶平は偽銘師として有名になったことから偽銘の注文が殺到したため、現存する作刀は少ないといわれている[1]。一説では新選組局長の近藤勇が佩刀していた虎徹と切られた刀は、鍛冶平によって創られた贋作であるとされている[1]。しかし、虎徹の真作と信じ切っていた近藤は池田屋事件でも”虎徹の刀”を利用し、事件の委細を武蔵国の後援者へ伝える手紙にも「下拙は刀は乕徹故にや、無事に御座候」と記している[7]。また、同じく新選組隊士として池田屋事件に参加していた中村金吾は「江府住細田直光 / 万延元年二月」と切られていた、鍛冶平によって創られた真作が用いられていた[8]。なお、池田屋事件参加者の刀を手入れした研師の覚書によれば、中村の鍛冶平も「イタミナシ」であったという[8]。 主な作品作刀品鍛冶平が製作した刀として、以下が確認されている。
偽銘・改竄品また、鍛冶平が銘を偽造・改竄した作品として、以下が確認されている。
脚注出典
参考文献
関連項目 |
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